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かんたんにラベルを貼らないこと、わかりやすくすることの功罪

インターネットにはインタビューの記事があふれている。

インタビューは好きだ。
良質なインタビューは、インタービューイの人生や体験を疑似体験したりその人から見える景色を一緒に見させてもらえるような、世界が広がる感覚をもらえる。

だから読むのと好きだし、編集者として働く中でインタビューをしてインタビューの記事をつくるのも好きだった。

反面、これまでインタビューをする側も、される側も体験してきて思うことは、インタビューの記事はさまざまな制約によって、わかりやすいラベルが貼られたり、カテゴライズがされやすい。

インタビューの原稿を読んで違和感を感じるときというのは、そういうことが起きていることが多い。

まぁでもそれは、きっとインタビューという場面に限らず、人が人の話を聞くときに、よくやってしまうことでもあるのだと思う。

理解をするために、ラベルを貼ったりカテゴライズをすることがよくないのではなく、わかりやすくしようとするとき、そこにはなにかしらかの固定観念だったり誇張した表現だったりがまじりやすくなる。


その体験が成功なのか、失敗なのか、挫折なのか。

周囲はそれを勝手に決めてしまったりするけれど、その体験の結論はきっとその人にしかわからない。
それに、その体験の意味も、時間の経過とともに変わっていく。

そのとき、その瞬間のつらい体験も、何年後かに振り返ったらささいな出来事になっていたり、大きな糧になっていたりする。逆もしかりだ。

自分に対しても、人に対しても、かんたんにラベルをはって理解したつもりになってしまうことは、思考をとめることになる。
理解をしようとすることでわかりやすくカテゴライズすることで、目の前の人や本当の気持ちは見えにくくなってしまう。

と、ふとそんなことを考えた3連休だった。
おやすみの日はなんでこんなにあっという間なんだろうねぇ。

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