人の感情が動く表現とはなにか?
「なにこれ、わたしが書いた文章みたい」
それが1番最初の感想だった。
編集長に借りた穂村弘さんの「はじめての短歌」を読んだ。
「はじめての短歌」は、穂村さんが”よいと思った短歌” が、その”改悪例” とともに解説されるというスタイルの本なのだけど、
冒頭の「わたしが書いた文章みたい」は、改悪例の文章を指す。
まず「改悪」という普通とは真反対からのアプローチが面白い。
短歌を嗜むような人ではないわたしは、「よい短歌」を見てもそのよさはいまいちわからないだろうし、よい短歌の批評をみてもたぶんいまいちピンと来ないだろうと思う。
だけど、「改悪例」があることで、なるほどと思うことがたくさんあって。
そしてまさにその「改悪例」は、わたしが書いたんじゃないかと思うような文章(正確には短歌)だったのだ。
これはなかなか衝撃だった。
元の作品:空き巣でも入ったのかと思うほどわたしの部屋はそういう状態
改悪:空き巣でも入ったのかと思うほどわたしの部屋は散らかっている
穂村さんは、この作品の解説の中で「(元の作品は)0.5秒 相手に考えさせるからよい」と書いていた。
改悪例は、わかりやすい。
だけど、わかりやすいだけだからきっとすぐに忘れられてしまう文章なのだ。
対して元の短歌は、「そういう状態ってどういうこと?」と0.5秒考える。そこに、作者とのほんの小さなつながりが生まれる。
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わたしの社会人のキャリアは人事総務からスタートした。
人事総務にいると、いわゆる通達や通知というお知らせの文章をたくさん書くことになる。でもだいたいは読んでもらえなくて、〆切までに対応してもらえないということが起きる。
わたしは、いかに「相手を考えさせずに分かってもらえる通達文章を書くか」ということに苦心し続けていた。
が、その行為はこの本でいう「(この社会や会社で)生きのびるための文章」で、それを必死に書き続けてきたということにそれなりに大きな衝撃があった。
なんか全然ちがうアプローチしてきてたのかもって。
だから、こうやってnoteで「わたし」を主語にして、「あなた」に向かって文章を書くというのは、ちょっとしたリハビリであり過去の癒やしでもあるのかもしれないなとか、そんなことを考えた。
今までに編集長にすすめられた本の中でもダントツに響いた一冊でした。
※熟成下書きにつき、読んだのは2018年4月頃です。
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