母になって、苦手なもの。
母という肩書きがふえて6年。
苦手なもののひとつが、「〇〇しないと子どもがかわいそう、はずかしい。(だから〇〇させたほうがいい)」というアドバイスみたいなやつだ。
この手のweb記事はいわゆるWELQ事件である程度は検索でひっかかりにくくなってきたけれど、それでもいまだにある。
はじめての子育て、とくに0〜3歳の時期はわからないことづくしで子の発達にあわせて新しい課題がうまれ、検索して情報を得る機会がとても多い。
そうして、こういう記事に出会っちゃうのはだいたい困ってて悩んでるタイミングで、読んで弱ってる心にとどめをさされるのだ。
(だから子育てメディアの編集者としてコンテンツをつくるとき、ぜったいこういう体験はつくりたくないと思っていた)
何度もとどめをさされる失敗体験をへて、弱ってるときにはweb検索しないし、情報が必要なときは信頼できるいくつかのサイトを調べたり、信頼できる人に相談をするようになった。
つまりそもそもそういう記事と出会わないようにしている。
それはわたしなりの防衛手段だ。
だけど、現実世界では「子どもがかわいそう」がいつ繰り出されるか、予期できない。
そしてとつぜん繰り出されたそれにカウンターパンチをくらうのだ。(それが自分に向けられていても、ほかの誰かに向けられていても)
「子どもがかわいそう」が苦手なのにはいくつか理由がある。
まず、子どもがかわいそうという子どものことを思ってそうに聞こえる言葉は、子どもの声をうばっている。
子どもがどう思っているか、それは同じ状況でもその子その子でちがうはずなのに、それを勝手に想像して代弁するというのがなんだかなぁと思ってしまう。
そして子どもがかわいそうやはずかしい、の背景にはみんな一緒であるべきという固定観念がくっついていることが多い。
みんなと同じじゃなくても、ちがって当たり前の環境や文化だったら、その子はみんなとちがってもかなしさもはずかしさも感じることはない。
その子をかわいそうな子、はずかしい子にしているのは、みんなとちがうことを、なにかができないことを、かわいそうだ、はずかしいことだ、と言っている人なのだ。
親切の着ぐるみをきたアドバイスは、親切だと思っているからこそ遠慮がない。
だからこわい。
まぁでも一番は自分がへこむのだ。
母になって6年たっても、胸をはっていい母です!なんて言える気もしない(言える必要もないけれど)。
理想の母親像とか理想の子育てみたいなものは、もうだいぶ前に手放した。
言われたって流せばいいのだけれど、かんぜんに気にしないほどに割り切れないのは、わたしの中にもどこかに「みんなと一緒」への安心のようなものがきっとあるからで。
子育てをしていると、自分の価値観や固定観念を揺さぶられることばかりだ。
子どもという他人をとおして、自分の中にある無意識の偏見や固定観念があることに気づく。
自分の価値観を手放し、選び直す。
それはなかなかいたみを伴うものだけれど、子育てをとおして学ぶことが日々多いなぁと思います。
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