見出し画像

幸せのカタチ。-身近な人との良好な関係-

最近、自分にとっての幸せってなんだろう?と考えることがありました。

その幸せのカタチの1つとして、
”身近な人間との関係が良好であること”
という考え方に出会いました。

僕はこの考え方に共感したと同時に、
自分の持っていた感覚と繋がりがあることにも気づきました。

そう感じさせてくれたのが、中学からの親友の存在だったので、僕の考え方や内面の部分を書いていきたいと思います。

--------------

--------

__

幼稚園の頃、大好きな仲間たちがいて、彼らを”親友”と思っていました。

彼らと永遠に一緒にいれると思っていたし、ずっとこのまま大きくなるのだと思っていました。
でも僕は小学生の時に転校してしまった。
離れた距離はわずかだったけれど、大好きだった仲間たちと以前のようには会わなくなってしまいました。

永遠の友情に憧れていた僕は、幼いながら永遠なんてないんだと考えるようになってしまいました。
友情も関係性も中学、高校と環境が変わることで入れ替わってしまう、
そんな風に思ってしまい、”親友”と認めることが怖かったのです。
”親友”という存在の憧れを無くしてしまう事が凄く怖かったのです。


そんな僕ですが、最近になって考えが少し変わりました。


中学の頃から一緒にいてくれた友達を”親友”と思えるようになったのです。
僕の中で親友=永遠の存在という方程式自体は変わっていません。

変わったのは、無くす不安が無くさない覚悟になったことだと思っています。

中学からの親友は、高校、大学と環境が変わって離れても、自分に会おうとしてくれました。
友人関係に関してすごく受け身な僕はその誘いに素直に甘えていました。


ある時、親友といた時に親友の友達に会った事がありました。
親友の友達が僕らに「お前ら、仲良いんだな。」と一言。

一瞬。
僕は次の言葉が出てこなかった。
仲が良いとは当然思っている、
でもそう思っているのが自分だけだったらどうしよう。
最後の砦を失うのが怖くて、声が出ませんでした。

でも、親友はなんの迷いもなく
「そりゃ仲良いよ。」と言ってくれました。

親友にとっては当たり前のことでなんの抵抗もない言葉だったのかもしれません。
でも臆病な僕はこの言葉に何度も救われました。

愛が欲しければ、自分から与える。
この考えを大切だとは思いつつも、自分の本音は与えることも求めることも怖がっていたのかもしれない。

大切に思っている存在から、大切に思われていることを知った時、
想いが届く瞬間、こんなにも救われるのかと僕は感じました。

この経験が僕の幸せのカタチかもしれない。
”身近な人間との関係が良好であること”の定義に近いと感じました。

大切な存在を大切な存在として保てるか、無くしてしまうかは自分の気持ち次第だと、この段階になってようやく気付くことができました。

僕の幸せが”身近な人間との関係が良好であること”なら、
まずは、僕にとってなくてはならない大切な弟と、
不安を超えさせてくれた親友を大切にしたいと思います。

僕の幸せのカタチを作るために、良い関係を保ち続けたい。
そんな覚悟ができたのです。

臆病な僕だからこそ、言葉の力を本気で信じています。
思いは言葉や所作に現れると思っていていて、
その積み重ねが僕の”幸せのカタチ”なのかな、なんて思います。

僕も少しづつ変わっていきたい。
より良く変わるなら、変わる方がいいと思えたから。


今回、内容がほぼほぼラブレターみたくなってしまいました。笑
若干のキモさを自覚した上で、それでもこの思いを綴っておきたいと思います。

きっと彼はこの文章に出会うことはないと思うんです。
だから、いつか時期が来た時に、
ちゃんと自分の口で感謝を伝えたいと思います。
あの言葉にすごく救われたよ、って。

彼の結婚式くらいで伝えてみようかな。
もっと早い方がいいかな。笑


そんなことを思う、今日この頃でした。

ライ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?