黒澤映画は何度見ても奥深い:椿三十郎の場合。(あと七人の侍同時視聴会のお知らせ)
先週の日曜にNHK-BSで椿三十郎が放送されてました。これ、本邦の時代劇でも指折りに好きなんですよ。黒澤映画という括りでいうならTOP3くらいに入れたいくらいです。
で、そういう映画を見た場合、他の人はどんな風に思ったのかなと色々と感想記事を探るわけですが、こちらの記事を見つけたときは赤べこのように頷いてました。
そうなんですよ、室戸半兵衛のようなワルが、自分をハメた男に対して「お前みたいにひどい奴はいない!」なんて言っちゃう。それを三十郎がバツの悪そうな表情で聞いてるのも良いのです。
そもそも何で三十郎が、「アイツは一匹だが虎だ」とまで評した危険な相手と無駄な決闘に応じたのか。
三十郎にしてみれば、自分と室戸との勝負については、不公正であったというところでしょう。なにせ、自分が若侍たちの側にいるということを室戸は知らないし、想像するようなどんな理由もない。でも、それを知らなかったことが室戸にとって致命的なかけ違いになりました。
それを誰よりも理解していたから、せめて最後だけは、無意味であるだけに何よりも公正である、一対一の剣のみが全てを決める対決としての決闘に応じたんじゃないでしょうか。
では逆に、なぜ三十郎は若侍を導き、捕らわれの城代家老を救い出すという大殊勲を上げながら、あの藩を去って浪々の身の上に戻ったのか。
三十郎が去ったことを知った城代家老は「ありがたいことに」と前置きした上で、“抜き身”の彼が「お城勤めができる男じゃない」と語りました。
では逆に、三十郎から見た城代家老は、どんな人物だったのでしょう。
三十郎自身は冒頭の“岡目八目”の段階では「手前がバカにされても気にしねえだけでも大物だ」と評しましたし、彼の鏡像とも言える室戸の方でも「なかなかの人物」と評していました。
しかし、同時のこの城代家老は、若侍たちの一員でもある甥っ子に対して「本当に悪い奴はとんでもないところにいる」とも言っていました。
普通に見れば、とんでもないところにいる悪い奴とは片棒を担ぐ大目付の菊井というところでしょう。
でも、この騒動が収まったとき、城代家老を掣肘できるような大物はことごとく姿を消していました。これを粛清劇と見るなら、自分の手を一切汚すこともない、刀を鞘に納めたままで終結したとも言えます。
そして、城代家老のこのような手並みを見たときに、三十郎はどうしようもなく嫌になった。そんなことは言えないでしょうか。
この家中に何の縁もなければ勝算もない、仕官の望みだってあるんだかないんだかよくわからない。そんな椿三十郎が、何だって「てめえたちのやることは危なくて見ちゃいられねえや!」と、最後まで若侍たちの味方をしていたのか。
そもそも、彼はなぜ浪人になっていたのか。
もしかすると、若き日の彼は、あの若侍たちと同じような向こう見ずで青臭い正義漢だったのかもしれませんし、「本当に悪い奴」に騙されて悪事の片棒を担がされたり故郷を追われる身の上になったのかもしれません。
この映画の構造は極限まで無駄を排してシンプルにできあがっていますが、それだけに実に奥深い。黒澤映画の神髄を感じます。
そして、そんな黒澤映画でも指折りの傑作として知られるのが、七人の侍。2月3日(土)の夜9時からという、リアタイ視聴するにはうってつけの時間帯に放送されます。
そして、Discordでの弊サーバーでも、ボイスチャットによる同時視聴会を開催いたします。
もし興味がある方は、お気軽にお越しください。