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てんぐの天龍八部再読日記④:江湖で交錯する仏教と聖書の世界観、そして悟りを開けざる者たちの説話

これまでの感想日記

前説

 ドラマを切っ掛けに始まった天龍八部再読日記ですが、13日に最終巻まで読破しました。ここ数年のてんぐの読書ペースからすると、かなり早い方でしたね。
 実は、ドラマを見る前は天龍八部に対しては、「長くて状況がややこしい」という理由であまり積極的に読み返したいという気は起きない作品でした。だもんだから、生きていた蕭遠山や慕容博の存在や蕭峯親衛隊の「燕雲十八騎」が原作でもいたなんて、すっかり忘れてましたよ
 でも、ドラマを補助線とすることで読みやすさは格段に向上し、それによって今まではあまり意識しなかった原作の諸要素が拾えたことで、実に面白く読めました。
 そんな気分を味わせてくれたドラマ版を改めて紹介すると共に、最後の再読日記をまとめます。

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 価格帯でいうと、Huluで見るのが一番リーズナブルな感じがしますね。
 あそこも結構面白い華流ドラマやクラシックな武侠映画を配信してるから、元は取りやすいですし。

楽園追放としての虚竹の破戒

 ロリババア魔王こと天山童姥からあれやこれやの干渉によって少林寺の嫌味な雑用係もドン引きするレベルの破戒を繰り返し、少林寺を涙ながらに破門された虚竹ですが、この破戒って、今読み返すと旧約聖書のアダムの楽園追放に擬えることはできないでしょうか。
 アダムはサタンに唆されて禁断の実を食べ、知恵と引き換えに楽園エデンを追放されました。
 この構図を、てんぐは虚竹と童姥のそれに当てはめながら読んでました。
 アダムは知恵を得たことでエデンは追われましたが、言い方を変えれば神の管理下を離れ自分自身の精神に基づく生き方、すなわち「人生」を得て人類の祖となりました。
 このアダムの姿は、自ら考えることのないまま少林寺という楽園に囲まれていた日常を喪失し、そして自分自身の伴侶と居場所を得て邪派軍団を善良なる道に導く役割を得た虚竹と重なるように思えます。

「お前らの本分は何なんだよ?」と言いたくなることは多々ありましたが、それでも仏教教団だった少林寺の中で育った虚竹が、旧約聖書の再現をするかのような歩みを見せる。この展開も、なかなか面白いところです。

謎のモンク・エクス・マキナ、庭掃き僧の正体について

 演劇用語の中に「機械仕掛けの神」デウス・エクス・マキナというものがあります。

 生きていた蕭遠山や慕容博による暴露大会に、数百人から千人単位の武装集団同士による内戦まがいの大乱闘スマッシュブラザーズ状態の収拾を、あふれる徳と武功でつけてくれた、何の伏線もなく登場してきた庭掃き僧は、このデウス・エクス・マキナに相当すると言って良いでしょう。
 で、この機械仕掛けのモンクモンク・エクス・マキナですが、今回の再読では、思い切り突飛な仮説を立ててみました。

 この庭掃き僧自身はただの庭掃き僧で、その身に達磨大師か菩薩様が憑依したんじゃないでしょうか?

 ドラゴンボールでも、天下一武道会に、神様が一般人のおっちゃんに憑依しシェンと名乗って出場してマジュニア=ピッコロと対峙したエピソードがありました。
 あれと似たような存在だったんじゃないでしょうか。

 下界で仏弟子どもが僧侶の本分見失って修羅道まっしぐらになってるのを見れば、達磨さんにしても菩薩様にしても、「見ちゃいられん」「一言説教してやらんと」って降臨しても不思議はないんじゃないかなー。

最後の士大夫・金庸先生=査良鏞の歴史観

 原作に対する忠実度は高いけど、局所的にはカットされた場面やエピソードはちょくちょくあります。
 例えば、前に上げた蕭峯の太祖長拳vs少林武功の他に、包不同のクソリプうざ絡みマンぶりとか、西夏の銀川公主婿取り大会でのダンジョンアタックとか。
 この辺はカットもやむなしかなって気もするんです。話のテンポも悪くなるし、包不同のウザ絡みについては読んでて涙目になるくらいウンザリしたし
 一方で、これはカットはやむなしとしても小説という場でなら読みやすいし興味深いと思ったのが、最終盤での宣仁太后の垂簾聴政から哲宗親政が始まった北宋朝廷の模様。
 ここでは宣仁太后が信任した蘇軾ら旧法派人士を名臣、逆に哲宗やその父である神宗が信任した新法派を佞臣として明確に描いていました。
 この新法派と旧法派の対立については、現代の日本人からすると王安石が主導した新法に合理性を感じますが、昔の中国ではむしろ旧法派の方に人気があったようです。そのような歴史観の土台となる旧法派びいきの世論や史料を残した士大夫階層は、多くが新法によって既得権益を損なわれていました。
 この士大夫階層は天下を文によって支える志と共に子々孫々まで史料と財産と歴史観を残していました。少なくとも、当人たちにはその自負がありました。
 そして、金庸先生こと査良鏞は、現代に生き残っていた最後の士大夫とも言える人物だったことは、彼について調べれば自然と浮かび上がってきます。

 北宋朝廷での武侠小説の領分をはみ出した歴史劇としての一コマだけでなく、「息苦しい作法に雁字搦めな中原と対比される自由な辺境」という描写の裏面にへばりつき、どうしてもぬぐい切れない漢人ナショナリズムに立脚した華夷思想。そもそも、雲南段氏一族が史実と相反して中原武林、即ち漢人として設定した理由にそれがなかったとは言えないはずです。

 こういったところから、最後の士大夫の残した、彼らの歴史観や価値観を垣間見ることができるのも、小説という媒体に触れる意義ではないでしょうか。

段誉くんのお相手:原作バージョン

 MAXAMさんの投稿にもありますように、原作ではドラマと段誉のお相手が若干違っていました。
 下半身スキャンダルの帝王の親父を持ったばっかりに妹が無限増殖するという大問題に対して、「父親を変えれば良い」というソリューションを得た段誉。ここまでは原作もドラマも変わりません。

 では、原作では段誉は誰をお相手にしたのか?
 答え:妹でなくなった好きな子全員。

 ……だいぶ前に高尾山で撮ったこの画像が役立ちそうです。

さあ皆さん、ご唱和ください

 なお、製作経緯からして正気の沙汰とは思えない武侠映画「大英雄」では、若き日の“南帝”一灯大師の祖父として、その段誉の成れの果てが登場します。

 なんつーか、絵面の説得力が凄まじいんだよね。

蕭峯の死はケジメか、それとも贖罪か?

 今回の再読で印象が変わったのが、蕭峯の自決の意味でした。

 初読時は蕭峯たちの脅しに屈して南進計画を無期凍結させられた耶律洪基の「宋のために大殊勲を立てられて良かったな!」という腹立ちまぎれの捨て台詞に対する憤死に見えました。
 でも、今回再読してみると、そういう怒りの気配は感じられませんでした。
 ドラマ版で彼が自決の理由として挙げた自らの「不忠、不孝、不仁、不義」、原作ではこれに対するケジメとして、行動を起こす前から思い定めていたような、そんな穏やかな決意を感じました。
 どのような理由があれ、行いに対してはケジメがつけられなければならない。
 自らに対してもそう厳格になれる江湖の英雄好漢らしい精神性が、原作における蕭峯の英雄性であるとすれば、ドラマ版は「契丹人も宋人も大理人も西域人も、この場にいるもの全ては我が兄弟だ!」「その兄弟すべての原罪と宿怨は我が血で清める!」という、イエス・キリストの受難と磔刑にも似たものを感じました。このふたつの演出、あるいは蕭峯への解釈は実に興味深いものがあります。

 ちなみにこの「不忠、不孝、不仁、不義」というフレーズは、原作では慕容復の大理国乗っ取り計画に対する包不同の諫言の中で出てきました。
 かつて「北の喬峯、南の慕容」と二人は並び評されていましたが、その江湖の評判以上に、両者は鏡像めいた関係性だったのかもしれません。

悟りを開けざる八部衆たち

 この小説のタイトルの由来である天龍八部衆とは、仏法に帰依し、これを守護する異形の神々を指します。

 しかし、仏法を守護するということは、同時に悟りを開いた如来とは異なる存在、悟りによる解脱を果たせない者たちでもあります。
 本作の江湖の豪傑、そして遼や宋の皇宮にいる為政者を見ていると、現世とは八部衆の世ではないか。
 悪行と策略を重ねてきたものが、その偶然の結果で力を喪失し、あるいは挫折につぐ挫折で自我が崩壊したことで解脱の幸福を得られる。この構図に気付いたとき、てんぐは「悪人正機」という言葉を思い浮かべました。

 悪人正機は「正義と貸し借りは命より重い!」という江湖の論理からは最もかけ離れた思想とも言えます。
 でも、金庸先生が時に迷走を重ねながら、天龍八部でたどり着いた答えのひとつはこれだったんじゃないだろうか。そんなことも感じます。

 そして、悪人でもなく、そして死人にもならず生き残った段誉たち正義の英雄たちは、本編の後も悟りを開けざるまま生を歩み続けることになる

 ハッピーエンドともバッドエンドとも違う、それらの区分の外にある結末を見てどう考えるか。
 八部衆と同じく悟りを開けざる読者は、それを自らに、そして互いに問い続けることになるのでしょう


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