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てんぐの天龍八部再読日記③:第三の主人公登場……するまでが長かった

これまでの再読日記

前説

 てんぐの天龍八部再読もついに折り返し地点を通過して後半戦に入りました。
 ここから作品のスケールもどんどん大きくなるわけですが、それと引き換えに「この作品のジャンルってなんだっけ?」という困惑も感じるくらいの大迷走期間にも入ります。
「書きながら次の展開考えるので良いからとにかく掲載し続けろ」という新聞小説特有の事情もあり、またこの時期は金庸先生自身のヨーロッパ外遊という外せない事情もあって別の作家に代筆を依頼していた(これが後に武侠小説史上に残る某重大事件の伏線となります)という事情もあり、というのも理由なんでしょうか。

 そんな天龍八部の5巻6巻のテーマとなったのは、ズバリ新主人公の誕生。
 なにせ主人公1号の段誉は状況に対しては本質的に受け身ですし、実の両親と師匠と育ての両親を死に追いやり自分に濡れ衣を着せた“かしら”への復讐という目的を持った主人公2号の蕭峯も、手がかりが消えてしまったので諦めて第二の人生に入ってしまいます。
 どちらもほとんど能動的に行動しなくなり、ストーリーの牽引力を失っていますし、第3の主人公が求められるのは当然です。
 しかし、どうも金庸先生自身も、それをしっかりと見定めていたのではなく、むしろ書きながら考えてたんじゃないかという節が見られます。いよいよ往年の少年ジャンプの長期連載作品みたいだな。
 というわけで、今回の感想日記は、その第3の主人公候補たちについての短評としてまとめてみたいと思います。

耶律洪基&完顔阿骨打

 草原に渡った蕭峯と出会った女真族の若者・完顔阿骨打、そして当代の遼の皇帝たる耶律洪基。
 前者については今さら言うまでもなく、後の金帝国の太祖となる人物です。

 射雕英雄伝では、金帝国と完顔王家は、それこそスターウォーズの帝国軍みたいに悪の軍団として描かれていました。
 これは、漢人士大夫の一族であり、女真族の後継民族である満洲族の清による文字の獄を受けた査家の末裔としての金庸先生の意識の投影でもあったと思われます。
 しかし、その開祖である阿骨打は、実に心優しい草原の好男子でした。
 この描写は、金庸先生の意識が、最後の士大夫としてのそれからの変化を見て取ることもできるかもしれません。

 一方で、当時の北東ユーラシア最大の帝国に君臨する耶律洪基。
 ドラマではこんな感じの人でした。

 いやあ、めっちゃ迫力あるな、この眼光
 で、この迫力ある御大、どなたかなというと、MAXAMさんの解説にもありますように、このドラマの総監督も務めた、アクション映画界の大ベテランでした。
 この佇まいなら、「多情剣客無情剣」の上官金虹とか「辺城浪子」の馬空群のようなラスボスも似合いそうです。

 この人たちを第3の主人公として据えるって選択肢は当然あったと思うんです。
 完顔阿骨打を主人公にして金帝国勃興の最初の1ページにするもよし、あるいは洪基皇帝を主人公として楚王の乱に見られるように全盛期を過ぎ斜陽の時期に差し掛かった遊牧王朝を描くというコースもあります。
 でも、それって既に武侠ってジャンルを越えちゃってるんですよね。
 そういう点でこの二人も主人公としては不適格判定となり、それが主人公候補たちが動き出す余地を与えたわけでもあります。

邪悪妖精・阿紫

のさばる阿紫あしを何とする。
義兄あにの裁きは待ってはおれぬ。
江湖の仁義もあてにはならぬ。
作者かみに隠れて仕置きする。
ーー南無阿弥陀仏
(ナレーション:芥川隆行)

 普通に考えたら主人公3号の座に最も近いはずだった阿紫。
 でもね、コイツはいくらなんでも邪悪すぎる。
 思春期ならではの試し行動と毒殺技術と嗜虐趣味が悪魔合体してやがる
 面白半分で游担之に焼けたままの鉄仮面被せたのは有名ですが、その後の「燕京で気になる男がいたから付け回して国境越えて、やっと隙を見つけて盛り殺した」と地の文でサラっと書いてあったのもどうかしてます。
 これ、マジで寅の会の競りにかけて良いんじゃないかってレベルの邪悪さですよ。
 まあ、当人だけならまだしも「阿紫を守ろうとする蕭峯も併せて仕置きしろ」なんて話になると、とても10両や20両では割に合わないですが。

「江湖のクズを集めて門派を作ったらどうなるか」って社会実験みたいな、北斗の拳ならケンシロウに秘孔を突かれて独創的な断末魔を上げそうな面々揃いの星宿派で育ったのが理由みたいなことも書かれてましたが、コイツは生まれついての悪だったと言われても全力で頷きそうです。

 なお、その星宿派のボスはこちらです。

 手下におべっか音頭を躍らせながら文字通り御輿に担がれてる毒術マスターの丁春秋を見てると、D&D5eのスターターセット収録シナリオ「竜たちの島ストームレック」のラスボスを、データブック「フィズバンと竜の宝物庫」に収録された追加サブクラス昇竜門のモンクに変えたくなります。

 阿紫にせよ康敏にせよ、金庸先生は「美女無罪」、美人は何をやっても許されるという信条でもあったんじゃないかと勘繰りたくなります。
 でも周囲はその信条までは共有しなかったようで、かくして上記の某重大事件、代筆者の倪匡による阿紫無断失明事件に至るわけです。

 スタッフも止めなかったところを見ると、関係者全員グルだったと思わざるを得ないんだよな。

南の慕容、ついに登場……したのは良いけれど

 というわけで、阿紫も主人公候補から消え、続いて登場するは「北の喬峯」と並び評された英雄、「南の慕容」こと慕容復です。

 これまでずっと名前だけは出てきたし、名声の点では蕭峯と張り合えて、段誉とも恋のライバルとなりうる、これまた第3の主人公として理想的な背景を持っていました。
 でも、原作の慕容復って、一言でいうと「ショボい」んですよね。
 初登場は、打ち手の精神的な本質を自分自身に分からせてしまう魔性の詰碁「珍瓏」へのチャレンジ大会。
 段誉の場合は自分の得ている石に対する執着が強くて捨てるべき石を捨てられない、という彼の多情と恋に対する未練が映し出されました。
 段誉はそれを認めて、静かに引き下がりました。
 では慕容復はというと、「こんな詰碁も解けないようで大望は果たせぬ! もはやこれまで!」と突然自害しかけました。繰り返しますが、これが初登場時の行動です。なんだこの絹ごし豆腐なみのやわやわメンタル
 しかも、その後の行動を見てると、大志のために味方を増やそうとして海の者とも山の者ともつかない邪派軍団数百名は「いずれ精鋭部隊になるかも」と腹に一物抱えて味方面をするのに、語嫣への態度が癇に障る程度の理由で大理国のプリンスである段誉にすげない態度を取ってました。
 こいつ、明らかに目先のジャリ銭は拾いに行って将来の大金を逃がすクチです。
 こんなショボいやつに主人公が務まるわけはない。ついでにいうと、ヴィランだって無理。キャラとしての設計ミスと言わざるを得ないですな。
 ドラマ版では「決して大人物なんかじゃないのに誇大妄想としか言えない大事業を背負わされた、幼馴染の従妹への想いだけを心の支えにしていたのに状況と周囲がそれを許してくれない悲しい人」として描写するために、最序盤から登場させていました。
 あのアレンジは大正解だったのがよくわかります。

 さて、歴史上の人物も邪悪妖精もショボい姑蘇慕容家も主人公候補から脱落。
 ついでに言うと、喬峯排斥クーデターを主導していた全冠清もピカレスクロマンの主人公として名乗りを上げてはいましたが、阿紫の虐待にドM覚醒しちゃった游担之のような特濃キャラと組んだのが災いして埋もれていきました。もともと大して大物じゃなかったけど

 そんな主人公不在の大迷走の末に登場した人物こそが、これから紹介する虚竹です。

虚竹、あるいは「少林寺の落ちこぼれ坊主だった僕が魔王になる件について」の主人公

 虚竹がストーリーの中心に初めて登場したのは、上記の詰碁チャレンジ大会でした。
 様々な碁の名手を撃沈させ、精神崩壊にすら至らしめる魔性の詰碁を見るに見かねて手を出す。そんな虚竹ですが、実はまったく碁の心得などありませんでした
 この魔性の詰碁は、鏡のようにその人物の本質を映し出します。
 では、虚竹の場合はというと、「何も考えていない」ということに尽きます。
 一見して堅物なくらい真面目な仏僧に見えるし、実際そうであろうとしてますが、それは「お寺でそう教わったから」という以上のものでなく、自分で悩み苦しみ、そして考えた上での答えじゃない。なので、考えざるを得ない状況に追いやられたとき、彼の信仰は依存へと変わり、そしてついに破戒に至るわけです。
 でも、その破戒に至ってもなお、彼の行動は善良さを全く損なってはいませんでした。その善良さこそが真に主人公として選ばれるに相応しい資質だと言えるでしょう。

 そんな虚竹の有為転変の運命ですが、魔性の詰碁を破った褒美として従来の少林派の内功をアンインストールされて逍遥派の内功を強制インストールされた挙句に掌門の指輪まで与えられました。
 この辺は「英領香港で金庸先生も指輪物語でも読んだのかな?」くらいに思うところですが、その次に待ち受ける、

「吸血衝動を持ったロリババア魔王とその妹弟子の鞘当てに巻き込まれた挙句に、西夏の皇宮で潜伏していたら虚竹を破戒させようとしていた魔王の手引きで美人とベッドインして恋に落ち、色々あって魔王の軍勢の新首領になりました。なお魔王軍の中枢は女の子ばかりです」

 という展開は、「なろう系ファンタジーかコレ?」と思いましたね。

 ロリババアもなろう系ファンタジーも、金庸先生はとうに通過していたんだなあ。

総括

 金庸作品では、実際に単行本にまとめるときは、新聞連載時の内容を大幅に修正するというのも恒例行事になっています。
 それを経てもなお迷走感を感じさせるわけですし、リアルタイムで連載を追いかけていた読者は、後の時代の単行本読者とは比較にならないくらい困惑したでしょう。

 でも、結果論ではありますが、この大迷走劇こそ、「煩悩を捨てきれず悟りも開けず仏の救いをついに得られない者たちの物語」という意味での仏教的なテーマに血肉を与えることになった。そんな風にも思えます。

余談、あるいは歴史のお勉強

 5巻と6巻に登場する遼や西夏について、歴史書から知りたいと思われた方には、岩波新書のシリーズ中国の歴史3巻「草原の制覇」がオススメです。

 また、西夏といえば、映画「敦煌」の舞台にもなっていました。

 先日WOWOWで視聴しましたが、「今の邦画界じゃなかなか撮れないだろうな」って映画パワーがありました。まあ、李元昊が渡哲也だったものですから「これ織田信長じゃない?」って思わせちゃうのはご愛敬ですが。

 配信サイトではAamazon primeのシネマコレクションKADOKAWA、U-NEXT、その他にHuluで配信中のようです。

 Huluといえば、ディズニープラスとのセットプランがあるそうですね。

 Huluでもドラマ版天龍八部は配信されていました。

 どちらも未加入という人は、この機会に加入してみるのもアリだと思います。

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