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【厳選】フッサールに挑戦!どの著作からスタートすべきかを徹底解説!

はじめに


ある哲学者に興味を持ち、いざその哲学者の著作を読もうにしても

「どの著作から読み始めれば良いのか?」

と迷ってしまうことってありませんか?


その場合、

・事前に解説書などを読んで、ある程度知識を入れた状態で著作を読むのか?

・そういった類いのもの(解説書など)は一切読まないで著作に挑戦するのか?

などによって最初に読むべき著作は変わってくるかと思います。


この記事で扱うフッサールにしても、どの著作から読むべきかは人それぞれ目的や前提条件が異なる以上「最初に読むなら絶対にコレが良い!」と断言するのは御法度なのかもしれません。

理想論としては、刊行された順に読むのが良いに決まってます。

フッサールでいえば『論理学研究』(ないしは『算術の哲学』)から順番に読む流れになるでしょう。

こうした読み方をすれば、思想の変化だったり、その時期ごとの問題関心が何だったのかを時系列で掴めるので、スタートからゴールまで精確に把握できるはずです。

しかし、現実的に考えてそんな読み方ができるのは時間とお金に余裕がある人だけでしょう。

そもそもフッサールの場合、時系列で著作を読むことを推奨している人は少数だと思います。

なんせ、最初の『論理学研究』が難しいんですから・・・


少なくともフッサール現象学の専門家が、これからフッサールの著作に初めて挑戦する人に

「そうですね〜『論理学研究』を最初に読むと良いですよ」

とは言わないはずです。

(分析哲学を学んでいてフレーゲとの違いを知りたい人や、デリダの現象学に対する批判を詳しく知りたい人には勧めるかもしれませんが・・・)

では私みたいな一般人はどの著作から読むべきなのでしょうか?

この記事では初めてフッサール著作を読むならどれがベストなのかをまとめてみました。


正直、この記事で紹介している著作以外でも、最初の1冊目として読んでもなんとか理解できる著作もあるにはあります。


しかし、そういった著作を出来るだけスムーズに理解したいのであれば、ここで紹介する著作を事前に読んでおく事をおすすめします。

なお、フッサールの著作でなく解説書についてはこちらの記事をご参考ください。


■ 選書基準


選書基準は以下の通りになります。

1:ページ数が少ないもの


この記事で紹介するフッサールの著作は3冊になります。


それぞれの著作は後ほど紹介しますが、この3冊はいずれもページ数が非常に少ないです。

訳注や解説を除くと、どれも100〜120ページほどになります。

(勘がいい人なら、この時点でどの著作か大方予想できるかなと)

ページ数を基準にするのは色々と意見があるところでしょう。

ただ、私みたいな一般人がある哲学者の著作を読む場合、1冊読み切った達成感を味わうのは非常に大切だと思うのです。

世間から難しいと言われている哲学書を1冊でも多く読み切った経験。

この経験は自信となり今後哲学書を読んでいくための1つのモチベーションになるはずです。

と言っても、決して「ページ数が少ない=内容が簡単」というわけではありません。

特にフッサールの著作はどれも難解だと言われています。


なので、今回紹介する3冊も決して簡単ではないですが、各著作を理解するためのポイントを書いたのでぜひ読み通すための参考にしてください。



2:詳細な方法論や分析論は度外視


フッサール著作の特徴を大きく分けるなら、

・概要
・方法論
・分析論

これら3つに分類できると思います。

1冊の中にこれら3つが詳細に説明されているものもあれば、1つだけ絞っているものもあります。

フッサール自身が書いた著作の多くはプログラム的な内容が多く、現象学の概要をあれこれ説明しているのが特徴です。

また、ここで言う方法論というのは、フッサール用語の代表的なものを挙げると「エポケー」や「現象学的還元」などになります。

そして、方法論から得られた事柄を詳しく説明しているのが分析論にあたる部分で、代表的なのは「ノエシス」や「ノエマ」などになります。

なお、今回紹介する3冊は「概要」メインのものになります。

その中には軽く方法論や分析論について触れている箇所もありますが、3冊とも詳細な分析論&方法論については触れていません。

実際にこれら3冊を読んで

「えっ、かなり詳しく方法&分析について書かれていると思うんだけど・・・」

と感じるかもしれません。

ところが、それよりもさらに詳細な方法&分析がされている著作があるんですね・・・

ちなみに緻密な方法論や分析論が書かれている代表的な作品は『論理学研究』『イデーン』『経験と判断』などです。


『論理学研究』と『イデーン』は、おそらくフッサール著作の中でTOP3に入る難解書です。

なぜ難解なのかは、やはり概要よりも方法論&分析論がメインだからでしょう。

(もちろん文章の読みにくさもあると思いますが)

誰だって、大枠の内容が難しい言葉や表現で書かれていたら、細部の内容も難しく感じるのは当然のことです。

そのため、まずは大枠の内容(概要)をしっかり把握して、その後に細部(緻密な方法論や分析論)に進むのがフッサール現象学を理解するための近道だと言えます。

まあ、フッサールに限らず大半の哲学書はそういった読み方をした方が良いと思いますが(汗)


3:出来るだけ内容が多く被っているもの


これは先ほどの「2」と関連しているのですが、概要がメインに書かれているということは、表現は違えど内容が多く被っている可能性が非常に高いです。

今回紹介する3冊もまさに所々内容が被っている箇所があります。

ということは、これら3冊を読むことで色々な角度を駆使してフッサール現象学の概要を把握することがより可能になると思うのです。

内容が被るところが多いということは、それだけその内容が重要ってことです。

フッサールは、大事なポイントとなる事柄については同じ本の中で何度も触れてますし、違う本の中でもすでに刊行した本の中でポイントなる部分を表現を変えて説明しています。

以上、3つの基準で選書しました。


■ この3冊からスタートしよう


1:『ブリタニカ草稿』:1927年


イギリス大百科事典『ブリタニカ』が「現象学」の項目をフッサールに依頼した際に執筆された作品になります。

この頃のフッサールは、自分の現象学がある程度形になってきたと少し手応えを感じていたようで、この依頼に並々ならぬ気合いで臨んだことが伺われます。

『ブリタニカ草稿』の最大の特徴は、現象学と心理学の関係、そして現象学というもの自体の哲学史的な意味について書かれている点にあります。

なので、この2点を読み取れるかがポイントになります。


また、1927年といえばフッサールの弟子ハイデガーの『存在と時間』が刊行された年でもあります。

当時、フッサールは周囲の人達から「ハイデガーはフッサールの現象学に対して批判的になっている」と言われていたようです。


フッサール自身はあまり気にしていなかったようですが、この『ブリタニカ草稿』をハイデガーと共同執筆を行った際、自分の思想と明らかにかけ離れたものになっていることに気付きます。

フッサールとハイデガーの関係が悪化したきっかけの1つとして『ブリタニカ草稿』の共同執筆が影響していることはほぼ間違いないでしょう。

ちなみに初めて『存在と時間』を読んだ時、フッサールはその内容をほとんど理解できず、2年後にやっと内容を理解し批判できるまでになったみたいです。

以上のことから、この『ブリタニカ草稿』はある程度確立されたフッサールの現象学の概要を知るための絶好の著作であると同時に、フッサールとハイデガーの思想の違いが垣間見える著作になっています。


◯理解するためのポイント


a:第4草稿(最終草稿)を重点的に読む


『ブリタニカ草稿』は全部で4つの草稿がありますが、最終稿である第4草稿が1番まとまった形になっているので、最悪この部分だけ読めばOKです。

(もちろん全草稿を読むのが望ましいですが)

ただ、ハイデガーとの違いを知りたいのであれば第2草稿は読むべきでしょう。

ハイデガーが執筆したのは第2草稿の序論と第1章で、第2章はフッサールが執筆しています(第1草稿を修正する形で)

なので、序論と第1章だけは読んでおきたいところです。

ちなみに、第3草稿はハイデガーが執筆した第2草稿の序論をそのまま第3草稿の序論に移し替えて(ハイデガーの「存在」問題についての部分は強調せず)いるだけなので、正直4つの草稿の中で1番価値が低い印象です。


ともあれ、第4草稿だけ読めば『ブリタニカ草稿』の核心部分は掴めるので、最優先で読むことをオススメします。



b:現象学的心理学と超越論的現象学の違いを明確にする


フッサールは現象学に様々なタイプの名前をつけました。

「現象学的◯◯」や「◯◯的現象学」のような感じで、それぞれのタイプの違いに慣れるのは意外と時間がかかるかと思います。

『ブリタニカ草稿』では特に、現象学的心理学と超越論的現象学の2つのタイプの説明をメインに行っています。

該当する章としては2章なのですが、その前の1章で純粋心理学について書いています。

なお、純粋心理学とほぼ同義なのが現象学的心理学になります。


ではフッサールが言う純粋心理学とは一体何なのでしょうか?


大雑把に言えば、一般的な心理学(心理物理学や経験心理学など)は物的なものに影響されることを前提として心的状況を探るものであるのに対し、純粋心理学はただ単に心的なものだけを取り扱っているものになります。

そして、フッサールは一般的な心理学はこの純粋心理学が基になって発展したものだと考え、この基になる純粋心理学を忘却している(重要視していない)一般的な心理学を批判しています。

そうした心的なものだけを扱う心理学は現象学的心理学という別名にもなり、そこでどういった機能が働いているのかを説明しています。


しかし、フッサールはその現象学的心理学とは違う別の現象の場を設けます。

それが超越論的現象学です。


フッサールによれば、現象学的心理学の立場であってもまだ不十分で、そこまでだと可能的な空間世界の中に存在している人間や動物の心として取り上げている以上、まだ実証的な立場に留まっているに過ぎないとします。

それにより、こうしたあたかも‘’それ自身で存在している‘’ようなものを全て排除して(超越論的エポケー)超越論的な心的な生こそが現象学的心理学にとって必要不可欠なものであるとフッサールは考えました。

ここで注意して欲しいのは、現象学的心理学と超越論的現象学は平行関係であるということです。

フロイトの第1局所論における「意識」「前意識」「無意識」の3層構造のようなものでは決してありません。

この2つは相互内含関係の中で暗黙のうちに互いを包含し合っていて、特徴としては超越論的および心理学的という二犠牲をもった純粋な間主観性というところにあります。

また平行関係というのは、2つの価値が全く等しいということではありません。

超越論的な間主観性は完全に自立的な存在基盤であり、すべての超越的なもの(世界に実在するあらゆるもの)は全てのこの超越論的な間主観性から存在の意味を汲み出しているものになります。

以上のことは第4草稿の第2章9節に詳しく書かれているのですが、この箇所の内容が分かれば現象学的心理学と超越論的現象学の違いが明確になると思います。

なお、一般的な心理学、現象学的心理学、超越論的現象学の3つの関係性は、『論理学研究』以降のほとんどの主要著作で触れられている内容なので、この『ブリカニカ草稿』を読む時点で概要を掴んでおくと後先読むのが楽になるでしょう。


c:超越論的現象学が過去の哲学対立を解決するとなぜ言えるのかを把握する


第4草稿の第3章では、超越論的現象学はこれまでの哲学対立を全て解消させる唯一の普遍的な学問である理由を述べています。

合理論VS経験論、相対主義VS絶対主義、主観主義VS客観主義、存在論主義VS超越論主義、実証主義VS形而上学など・・これまでの哲学史で登場したあらゆる対立が、なぜ超越論的現象学によって解決することができるのか?


正直、説得力が弱い感が否めない内容となっていますが、それでもフッサールはそういった対立している同士の中にも共通な普遍的なもの(アプリオリなもの)があるとし、それを解明する唯一の方法が現象学であり、その中でも超越論的現象学を突き詰めれば解決できると語っています。

そしてそれを解明し解決するためには、一個人の現象学者によってではなく、多くの人達との共同作業をもってやるべきものだと忠告し、本草稿を締めくくっています。


◯邦訳の種類


2022年3月時点で3冊の邦訳が刊行されています。


1:谷徹【訳】 ちくま学芸文庫 2004年

※上記のリンク先で第4草稿第1章の3節途中まで試し読みができます。


第1〜4草稿全てが収録されており、この草稿を執筆していた当時のフッサールへのハイデガーの書簡も掲載されています。

また本翻訳の最大の特徴は、約100ページにわたって第4草稿の解説がされている点にあります。

当翻訳者の著『これが現象学だ』の内容をベースとした解説となっており、より詳しく解説するためにあえて『ブリタニカ草稿』で書かれている内容を少し脱線している箇所もありますが、非常に分かりやすいです。


1つ残念なのは、現時点ではおそらく絶版になっているので中古で手に入れるか図書館で借りるしかないということです。


AmazonでKindle化されているので電子書籍に抵抗がない人はそちらで読んでも良いでしょう(もしかしたら一部の内容が削除されているかもしれませんが)


2:田原八郎【訳】せりか書房 1980年


収録されているのは第1、2、4草稿で第3草稿は掲載されていません。

その代りに『イデーン後記』が収録されています。

『イデーン後記』というのは、当時『イデーンⅠ』を刊行した後にフッサールに寄せられた様々な批判に対するフッサールの反論が書かれたものになります。

『イデーンⅠ』は当時のフッサールが超越論的現象学についてまとまった形で刊行した初の著作になります。

(『イデーンⅡとⅢ』はフッサールが亡くなった後、弟子による編集で刊行されました)

ちなみに『イデーン後記』はみすず書房から刊行されている『イデーンⅠ』にも掲載されています。


なお、こちらの邦訳書も絶版なので中古で手に入れるか図書館で借りるかしかありません。


3:木田元・宮武昭【訳】 現代思想 青土社 1978年


今現在も刊行されている『現在思想』のフッサール特集として、第4草稿のみが収録されています。


本書はフッサール現象学の論文がメインとなってますが、巻末に『哲学および現象学研究』の年表や現象学運動の展開が一覧として掲載されているので、これがまた大変役に立ちます。


なお、こちらも絶版なので中古で手に入れるか図書館で借りるかしかありません。


◯どの邦訳が良いか?


オススメなのは谷徹訳になります。

他の2冊に比べると読みやすい印象です。


やはり解説がかなり良いので、正直『ブリタニカ草稿』の本文を読まなくても解説だけ読めば大半の内容は掴めると思います。


それと『これが現象学だ』を読了済みの人にとっては、同じ著者が訳したものの方が抵抗なく読めるかなと。


谷徹訳を読んで「他の訳と比べて内容を吟味したい」と思ったら残り2冊の邦訳に手を出す感じで良いかと思います。



2:『現象学の理念』:1907年


『論理学研究』で特徴的だった記述的心理学(記述的現象学)から超越論的現象学へ向かうフッサールの意思が初めて明確に示された著作です。

もともとは1907年の夏にフッサールが行った『事物論』という講義の序論となっていた5つの講義の内容がこの『現象学の理念』になります。

この講義の2年前にあたる1905年の夏、フッサールはチロル地方のゼーフェルトで当時のミュンヘン学派のメンバーだったプフェンダーとダウベルトと討論を交わしました。

ミュンヘン学派というのは、『論理学研究』に影響されて現象学を志した人達が集まった学派になります。

特徴としては、具体的な体系についての本質分析や本質記述を重視し、アプリオリな本質に関する直観的な把握の方法に焦点を当てています。

要は『ブリタニカ草稿』の箇所で触れた「現象学的心理学」の立場の学派です。


さて、そこで彼らから「純粋自我」を学んだフッサールは、当時取り組みつつあった「内的時間意識」と「構成」の問題を考慮した上で、この純粋自我をあらゆる志向的作用の中心とみなすようになります。

(『論理学研究』の頃のフッサールは、純粋自我に否定的だった)

プフェンダーが考える純粋自我とフッサールが考える純粋自我は異なっていて、ここではその違いを詳細に述べることは控えますが、フッサールがプフェンダーの純粋自我に対する対決を計ったのが『ゼーフェルト草稿』になります。

(この『ゼーフェルト草稿』で、還元(現象学的還元)が初めて登場するが、サラッと書かれているだけで詳しい内容は書かれていない)


以上の出来事を経て5つの講義が行われ、そこで還元の意義や構成について触れられています。


なお、この講義を受講していた当時の生徒は、内容が難しかったためかフッサールの望み通りには理解してもらえなかったようです。


当時の学生にとっても『現象学の理念』は難しかったんですね〜。



◯理解するためのポイント


a:『ブリタニカ草稿』と比較しながら読む


この『現象学の理念』は『ブリタニカ草稿』と比べると、曖昧に明言されている箇所が多々あります。


そもそも『ブリタニカ草稿』の約20年前のものになるので、当時まだ本格的取り組み始めていなかった発生的現象学については触れておらず(ただし第1講義の最初ら辺に書かれている「〜無規定なもの、未知なるもの中へ〜」から後期の「地平」に関する思想が伺われる)まだ超越論的現象学の手探り感がある叙述となっています。

なので『ブリタニカ草稿』と読み比べてみて、フッサールが超越論的現象学についてどのように明確化していったかを読み取る感じで読むと良いでしょう。

具体的には「自然的態度」「志向性」「現象学的還元」などは2つの著作で触れているのでそれらを中心に読み比べることをおすすめします。



b:「内在」「超越」「還元」の意義を把握する


『現象学の理念』を読み解く重要なキーワードとして「内在」「超越」「還元」の3つが挙げられます。


特に「内在」「超越」は本書の最初の壁とも言ってもいいほど難解な内容となっています。


認識の問題を解明するためにデカルト的道を選んだフッサールは「内在」と「超越」の関係性に注目します。

では「内在」「超越」とは一体何なのでしょうか?


まず「内在」について。

フッサールは「内在」を「実的内在」と「志向的内在(構成的内在)」に区別します。

実的内在とは、知覚や想起などによる意識内での直観的な認識のことで、絶対に疑うことができないものになります。

(実的内在は「十全的自己所与」とも表現されています)

例えば、あなたの目の前に1台にスマホがあったとして、そのスマホを知覚した時の意識の直観的な認識(長方形で厚さは薄いだとか)が実的内在になります。


極端に言えば、それが何なのか疑う前に不可避的に意識内におこる認識のことです。


「もしかしたら長方形じゃないかもしれない」と後で疑うことは可能ですが、それを疑う前に「長方形の形をしてるな〜」と認識したこと(してしまったこと)は絶対に疑えませんよね?


フッサールはこの実的内在を明晰の第一段階にし、認識の問題を解明するための出発点とします。


そしてこの実的内在の明証性をベースとして構成されるのが志向的内在(構成的内在)になります。


先ほどの例でいえば「目の前にあるのは1台のスマホだ」だと意識が認識した対象の意味になります。


常識的な考えであれば、スマホが何なのかを知っている人であれば目の前の1台のスマホを知覚した瞬間に「これは1台のスマホだ」と認識しますが、フッサールにとっては一瞬でスマホだと認識するわけではなく、そこには実的内在と志向的内在が意識の中で働いた結果、「これは1台のスマホ」だと認識するということになります。


また、志向的内在(構成的内在)は「対象の意味性」と「対象存在の意味性」の二重の意味を含んでいるとフッサールは言います。

『現象学の理念』は後者の方が重要で「1台のスマホだ」という、現に目の前に存在している対象が一体何なのか?つまり現に知覚している対象は具体的に一体何なのか?にあたるのが「対象存在の意味性」になります。

「志向的内在」については曖昧に書かれている感があるので理解するのに苦労するかもしれません。

ある人は「実的内在」をイデーンの「ノエシス」、「志向的内在」をイデーンの「ノエマ」にあたると言っていますが、確かにそう解釈するとスッキリ感がありますが、私としては完全にそうとは言えない気がします・・・

次に「超越」について。

第2講義の『内在と超越、両概念の区別』によると、超越には二重の意味があるとしています。


1つ目は、認識となる対象が認識作用の中に実的に含まれていない意味での超越になります。

すでに述べた「実的内在」「志向的内在」は意識内の認識についてのものでしたが、この意味での「超越」はそうした意識内の認識には含まれないもの、つまり私たちがそれを意識して認識ようがしまいが存在しているものを指します。

つまり科学的(常識的)な考えでいう「客観的な対象」のことです。

そして重要なのは2つ目で、絶対的で明晰な所与性、絶対的な意味での自己所与性の意味での「超越」になります。

つまり「実的内在」と「志向的内在」で明らかになったように「内在」の中で構成されたものは‘’ある種‘’の超越性を持っているということになります。

意識内では「実的内在」と「志向的内在」の2つが働いていて、決して意識の中に与えられないあらゆる存在しているもの(超越物)を「存在している」と考えてしまうのは一体なぜなのか?をフッサールは解明したいと考えていました。

そのためには、内在的でない超越的なものを利用せず、意識内での現象(「実的内在」と「志向的内在」の働き)だけを見る必要があります。

そこで必要となる方法が「還元(現象学的還元)」です。


フッサールの「還元」は他に「形相的還元」「超越論的還元」などがありますが、「現象学的還元」の意義が初めて明確に示されたのはこの『現象学の理念』になります。


正直、現象学的還元の意義は『ブリタニカ草稿』の方がより明確に書かれているので、そちらと平行して確認した方が良いでしょう。



c:時間意識の構成に注目する


さきほどフッサールが考える純粋自我は内的時間意識の問題を含んだ上でのものと言いましたが、第5講義で時間意識の構成について触れられています。


『ブリタニカ草稿』第4草稿では時間意識については触れていないので、ぜひとも注目したい箇所になります。


時間意識と言えば『内的時間意識の現象学』が思い浮かぶ人もいるかもしれません。


この第5講義では、『内的時間意識の現象学』で登場する「原印象」「過去把持」「未来予持」などのワードは登場しませんが、ここですでに同様の考え方に至っていることが読み取れます。

そして、その時間意識(特に「過去志向」)に注目して、いかにそれが本質把握やカテゴリー的直観に繋がっていくか(関連性があるのか)を分析しています。


おそらくこの第5講義が1番難しいと思いますが「構成」について触れているところなのでしっかり読んでおきたいところです。


◯邦訳の種類


2022年3月時点で2冊の邦訳が刊行されています。


1: 立松弘孝【訳】 みすず書房 1965年


数多くのフッサール主要著作を翻訳している立松弘孝によるものです。


校注、訳注が合わせて約60ページ書かれており、訳者あとがきにはフッサールの生涯について詳細に記載されています。

(校注、訳注の文字はかなり小さいので老眼の方はかなり読みにくいかもしれない)


まさに邦訳の決定版と言っても過言ではないでしょう。



2: 長谷川宏【訳】 作品社 1997年


長谷川宏と言えば、ヘーゲル著作の邦訳で有名ですがフッサール著作も2冊(今回の『現象学の理念』と『経験と判断』)翻訳しています。


彼の翻訳はかなり大胆で専門家から賛否両論あるようですが、一般読者にとっては読みやすいことは確かでしょう。

なお、本書は一切注訳がありません。


◯どの邦訳が良いか?

精確性を重視するなら立松訳、読み易さを重視するなら長谷川訳といった感じです。

ただ『ブリタニカ草稿』よりも『現象学の理念』の方が内容は難しいので、まずは長谷川訳を読み、もっと精確に読みたいと思ったら立松訳を読むのが良いかもしれません。


といっても全体の完成度としては圧倒的に立松訳の方が勝っているので、今後何回も再読を考えている人は立松訳を絶対に持っておくべきでしょう。



◯参考書として


『現象学の理念』を読み解くための参考書として、竹田青嗣【著】の『超解読!はじめてのフッサール「現象学の理念」』は大変便利になると思います。


竹田青嗣の現象学解釈は独特なので毛嫌いしている人も多いですが、特に気にしないのであれば本書を読めば理解スピードがかなり早くなるでしょう。


また、似たようなタイトルで同著者の『完全解読 フッサールの「現象学の理念」』という本もありますが、前著にて「内在と超越について誤解を与えかねない表現で解説してしまった」と書かれているので、読むのであれば『超解読!「超解読!はじめてのフッサール「現象学の理念」』の方だけで良いかなと。


私自身は『完全解読 フッサールの「現象学の理念」』の方は読んでないので、詳しい内容は知りませんが・・・


なお、竹田青嗣の現象学解釈と標準的な現象学解釈の違いは過去に記事を作成したので興味があれば下記よりご覧になってください。


3:『厳密な学としての哲学』:1911年


別名『ロゴス論文』と呼ばれている本書は、フッサールが生前初めて現象学を厳密な学として絶対的に基礎づけられたものであると主張した作品になります。

そのため本書は学問論としての現象学が全面に出ている内容となっています。


ちなみに『イデーンⅢ』でも学問論がテーマになっていますが、これは遺稿作品となってます。

本書の特徴は、当時学問として優勢だった自然主義的哲学、実験心理学、歴史主義、世界観哲学に対して、フッサールがそれらの成立過程を分析し、いかにそれらが私的な立場で決して客観的に基礎付けられたものではないと批判している点にあります。


フッサールは終始、何としても現象学を学問の基礎として成り立たせたかったようです。

晩年の作品『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』の内容からもそのことが伺われます。


◯理解するためのポイント

a:まずは1部を読む


本書の大まかな構成は

序章:学的哲学の理念と方向転換
1部:自然主義的哲学
2部:歴史主義と世界観哲学

となっていますが「1部:自然主義的哲学」の内容は『ブリタニカ草稿』第4草稿の1章と非常に関連性が高いとなっています。


イメージとしては『ブリタニカ草稿』で触れている一般的な心理学(心理物理学、経験心理学など)についてより具体的に何が問題なのかを言及している感じです。

なので、復習という意味も込めて、まずは本書1部と『ブリタニカ草稿』第4草稿の1章を比較しながら読むことをおすすめします。



b:なぜ哲学が厳密な学になりえていないのかを知る


本書の序論にあたる「学的哲学の理念と方向転換」では、なぜこれまでの哲学が厳密な学として一度も成立されなかったのか?その原因は一体何なのか?についてのフッサールの意見が述べられています。


ポイントは、ヘーゲルの登場によって厳密な学としての哲学の理念が阻害されたと指摘している点にあります。


ギリシア哲学の誕生以来、数多くの哲学者が独自の哲学でその理念を達成しようと試みましたが、ヘーゲルによって完全にその理念の衝動が180度変わってしまったとフッサールは考えます。


フッサールにとってヘーゲルはロマン主義者であり、彼の哲学体系には哲学が学問として最初に可能するところの理性批判が欠如していると見なします。

フッサールがヘーゲルの哲学をどれくらい熟知していたかは不明ですが、おそらくヘーゲルの『精神現象学』の序論だけは読んでいた可能性が高いと思います。


『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』第57節にて、序論についてサラッと書かれている箇所があるので。

それはさておき、ヘーゲルによって厳密な学としての哲学理念の衝動に変化が起きてしまったと考えたフッサールは2つの点に注目します。

1点目は、理念自体の衝動が変造されたということです。


これにあたるのが自然主義で、精密科学が強化されたことでヘーゲル哲学は19世紀後半には全くといってもいいほど力を失い、一方18世紀に生まれた自然主義が復活を遂げ、圧倒的な拡張力を持つことになりました。


自然主義は全てを事実に還元して経験的な帰納法で普遍的法則を見い出します。

しかし、そのベースとなる事実の事柄は個別的&可変的なため、結果自体も個別的&可変的になるのを逃れることができません。

つまり、最終的には懐疑主義になってしまうわけです。

そのため、あくまでも懐疑主義的な世界観に留まり、それが原因で理念の衝動が全く変わってしまったという事になります。

2点目は、理念自体の衝動が弱体化されたことです。


これにあたるのが歴史主義と世界観哲学で、形而上学的な歴史観は一切認めず相対主義的なため、懐疑的な歴史主義へ転換してしまいました。

こうした当時の状況中で、フッサールは何としてでも現象学を厳密な学として絶対的に基礎づけられたものにしたいと思い、また現象学はその権利を十分持っているはずと考えていました。

またフッサールは、ただ単にこうした懐疑主義に染まっている現状を批判している以上に、それによって将来起こりえる危機を予防する意味でも現象学を厳密な学の哲学として成り立たせたいと強く思っていました。

残念なことに、私たちはフッサールが心配していた危機が2つの世界大戦という出来事を通じて現実に起きてしまったことを知っています。


2つの世界大戦の残虐さの裏には多少なりともフッサールが本書で批判した事柄が影響していることは火を見るよりも明らかでしょう。

過去に誰1人も哲学を厳密な学として築けられなかったこの状況に、フッサールは何を思い、どのような決意を持ったのかがこの序論で読み取れるかと思います。




c:歴史主義、世界観哲学の批判を読み取る


本書2部では歴史主義、世界観哲学に対するフッサールの批判が書かれています。

ここではディルタイをメインに挙げているのですが、ディルタイの思想は進化論的な発展型で、歴史全般に関わる諸形式は相対的であるとしています。


つまり、時代によって妥当性というものは変わるということです。

哲学もその例外ではなく、時代によって妥当性が変わる以上、相対的に留まらざるを得えない無政府状態であるとし、普遍性を否定し懐疑論に帰着する運命にあるとディルタイは考えます。

それに対しフッサールは、ディルタイのような歴史主義者が考える歴史的妥当性と客観的妥当性は区別しなければならないとしています。

「歴史主義者は歴史的妥当性と客観的妥当性を区別しておらず混同している。だから懐疑主義に陥るんだ」

とフッサールは批判します。

フッサールにとって歴史主義者が相対的だという時、そこにはその時代ごとの評価を相対的に行っているが、その評価する作用の原理はイデア的な領域にあり、より洗練された科学的相対評価をするならばそれ(イデア的な領域)を認めざろう得ないはずだとしています。


また、歴史主義者はその特性から事実的なことを重視し、それを認識の源泉にする必要があるわけですが、その基礎付けを怠り、知らず知らずのうちに哲学的認識の源泉に依存している(依存せざろう得ない)とフッサールは主張します。

その哲学的認識の源泉になるのが現象学、より具体的には超越論的現象学なのだとフッサールは言います。

なお『厳密な学としての哲学』を読んだディルタイは、自分が歴史主義者だと見なされていることに異議を唱えたようです。

このことが原因で2人の関係も冷めてしまったみたいですが、それまでディルタイはフッサールの『論理学研究 第2巻』を自身の講義のテキストにするくらい評価していました。

一方、フッサールはこの出来事が起こった後もディルタイの『精神科学における歴史的世界の構造』を熱心に読んで色々と学んでいたようです。

『厳密な学としての哲学』の刊行により、互いに対する態度が全く逆になってしまったことは何とも言えないところです・・

さて、次に世界観哲学についてですが、これは歴史主義の懐疑性から生じたものであるとフッサールは考えます。

世界観哲学は実証科学ではなく個別科学を重視し、それをあたかも客観的真理の宝庫として自らを科学的なものだと主張していますが、歴史主義と同様、厳密性は強くないので世界学ではなく‘’世界観‘’に最終的には落ち着きます。

フッサールは、世界観哲学を規定する動機として「人生体験」「教養」「知恵」の3つを特定し、その解明に取りかかります。

各動機の説明はここでは控えますが、そうした3つの動機からなる世界観哲学の理念はあくまでの時間的であり、学としての哲学の理念は超時間的(イデア的)とフッサールは考えます。

そして、フッサールが生きていた当時は、世界観哲学の理念のように時間的なものを重視しているため、何もかもが実践的な動機に支配されており、学としての哲学の理念のような理論を重視する知恵の努力の有効性が弱まっている状況でした。

これは今私達が生きている時代と全く同じだと言えるでしょう。


おそらく多くの人は、マインドよりもノウハウの方が重要だと考えているはずです。


そうした当時の状況に対してフッサールはこう言います。

「我々はある時代のために永遠を犠牲にしてはならない」

と。


以上が大雑把ではありますが『厳密な学としての哲学』の重要ポイントになります。


注意しなければならないのは、フッサールは自然主義、歴史主義、そして世界観哲学の全てを否定しているわけではないということです。


自然主義は、哲学とは違うやり方だけど厳密な学を追求している点は評価でき、歴史主義、世界観哲学に関しては、世界観の追求という意味においては十分な価値があるとフッサールは考えています。

なお『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」では歴史(性)に対する態度が『厳密な学としての哲学』よりも積極的になっています。


そうしたフッサールの歴史(性)に対する姿勢の変化を読み取るためにも『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を読む前に『厳密な学としての哲学』を読んでおく事をおすすめします。


◯邦訳の種類


2022年3月時点で2冊の邦訳が刊行されています。


1: 佐竹哲雄【訳】 岩波書店 1969年


訳者の注とあとがきが合わせて約30ページ記載されており、あとがきについては本文の要約的な内容となっています。

本文の邦訳ですが、今ではあまり見かけない日本語表現がされている箇所があります。

(例えば「かように」「なかんずく」「よしんば」「たとい」など)


なので、慣れるまで少し時間がかかるかもしれません。


旧字体ではないので、理解する分には問題ないと思います。

なお、こちらの邦訳書は絶版なので中古で手に入れるか図書館で借りるかしかありません。


2: 小池稔【訳】 世界の名著(51)収録 中央公論社 1970年


『厳密な学としての哲学』以外に『デカルト的省察』『ヨーロッパの学問(諸学)の危機と先験的現象学(超越論的現象学)』そしてフッサールの師とされるブレンターノの『道徳的認識の源泉について』が収録されています。

※ただし『ヨーロッパの学問(諸学)の危機と先験的現象学(超越論的現象学)』は第2部までしか収録されていません。


また約45ページにわたる現象学の意義とその展開についての解説も収録されています。

邦訳も非常に読みやすく、注釈はそこまで多くないですが、よくある巻末にまとめて掲載されているのではなく、該当するページ内(見開き内)に載っているので確認がしやすい構成となっています。


ただ1ページ上下2つの段で文章が書かれているので、それに抵抗がある人は読みにくいかもしれません。

なお、こちらの邦訳書も絶版なので中古で手に入れるか図書館で借りるかしかありません。


◯どの邦訳が良いか?


こだわりがなければ小池稔【訳】をおすすめします。

この1冊で他のフッサールの著作、そしてブレンターノの著作も読めるのはかなりお得感がありますし。


ただ、なぜか『厳密な学としての哲学』だけ目次が一切記載されてないので、後々参照する際はかなり面倒になるのでそこは注意してください。

注がしっかり記載されている方が良い人には佐竹哲雄【訳】の方が良いでしょう。

(と言っても全部で45の注しかありませんが・・・)



■3冊をどの順番で読むのが良いのか?


1冊ごとに読むのであれば『ブリタニカ草稿』⇒『厳密な学としての哲学』⇒『現象学の理念』の順が良いでしょう。


難易度としては『ブリタニカ草稿』が1番易しいと思います。


どれも難しいのは当然なのですが『ブリタニカ草稿』はその名の通り、ブリタニカ百科事典から要請されて書かれたものなので、フッサール自身も今までよりも多くの一般人に自分の研究成果を見てもらえるだろうと考えていたはずなので、他の著作よりかは内容が易しくなっている印象があります。

もう1つの読み方として、各著作の説明ですでに書きましたが、


1:『ブリタニカ草稿』の第4草稿(最終草稿)を読む


2:『現象学の理念』の「自然的態度」「志向性」「現象学的還元」に関する部分と『厳密な学としての哲学』の自然主義的哲学と実験心理学に関する部分を、『ブリタニカ草稿』の内容と比較しながら読む(目次や索引を参照しながら)

3:残りの部分、つまり『現象学の理念』の「内在」「超越」「時間意識」「構成」に関する部分と『厳密な学としての哲学』の歴史主義と世界観哲学に関する部分を読む


という読み方をすれば、フッサールの現象学の概要がより明確になるかと思います。

3冊ともページ数は少ないので最初は1冊ごとに読んでも全然良いのですが、そうした読み方をした後で、もし余裕があったら上記の読み方をすると良いかなと。


■次に読むべき著作は?


これら3冊を読んで内容が理解できたらフッサール現象学の核心となる概要は掴めるはずです。

もし「もっとフッサールの著作を読みたい!」と思ったら次は

『デカルト的省察』

『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』

を読むことをオススメします。


※上記リンク先で第2節の途中まで試し読みができます。


各著作についての説明は控えますが、今回紹介した3冊を読んでいれば抵抗なく内容が理解できるでしょう。

正直、デカルト以降の認識論をある程度知っていれば最初にこの2冊を読んでも全く理解できないってことはないと思いますが、今回の3冊を読んだ上で臨んだ方がより内容が面白く感じるかなと。


なお、私としてはこれら

『ブリタニカ草稿』

『現象学の理念』

『厳密な学としての哲学』

『デカルト的省察』

『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』

の5つがフッサール主要著作の中で概要的なものに当たると考えています。

(邦訳されている著作に限る)


そして詳細な方法論と分析論にあたるのが

『論理学研究』

『イデーン』

『受動的綜合の諸分析』

『内的時間意識の現象学』

『経験と判断』

『形式論理学と超越論的現象学』

『間主観性の現象学』

になると考えています。

(邦訳されている著作に限る)

なので、まず今回の3冊からスタートし、次に『デカルト的省察』『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を読み、その後に上記の7冊に挑戦することを推奨します。

(特に私みたいな一般人は)


※『コペルニクス的転覆』と『幾何学の起源』は『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を読んだ後に読むと良いでしょう。


さいごに


最後までお読み頂きありがとうございました。


この記事を作成するにあたり、今回紹介した3冊を再読したのですが、初めて読んだ時よりもフッサールが何を言いたかったのかがより分かったような気がしました。


全てを完全に理解できている自信はないのですが、改めてこの3冊はフッサール現象学の概要を知るのに適していると確信が持てました。


おそらく、フッサール現象学の専門家や長年独学でフッサールを勉強してきた人は、十分な読書時間があればこの3冊は1日で読めてしまうと思います。

(そういう方々は何度も再読しているはずなので)


そんな状態を目指す必要はないですが、少しでも長くフッサールの現象学に付き合っていきたいのであれば、最低限でもこの3冊の内容はある程度おさせておくべきでしょう。

また、フッサール以後の現象学者に興味がある人も、一読だけでも構わないので読んでおくと良いと思います。


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