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竹田青嗣の現象学は異端なのか?標準的な現象学と何が違うのか?

■ はじめに


竹田青嗣(以下「竹田」と記載)と言えば、難解な哲学書を一般人にも分かりやすく解説している入門書が多いことで知られています。


その中でもフッサールの現象学は彼の哲学に大きな影響を与え、数ある著者の入門書の中でもとりわけ現象学に関する内容が多い印象があります。


しかし、学者の評判は決して良いとは言えず、彼の書籍(あるいは論文)が参考文献(文献案内)に掲載されているのを私自身は一度も見たことがありません。


たまたまTwitterを見ていた時、

「学生時代、現象学を専門としている教授から「竹田の本は読むな」と言われた」

というツイートを発見したのですが、このことからもやはり学者の間では評判があまり良くないのかと思います。


以上のことから当然の疑問として出てくるのは、

・なぜ竹田の現象学は不評なのか?

・竹田の現象学は伝統的な現象学の解釈(標準的な解釈)と具体的に何が違うのか?

という点です。



特に、フッサールの現象学を学び始めたばかりの人は、竹田の現象学はそこまで標準的な現象学の解釈とそこまでかけ離れていない印象を持っている人が多いのではないでしょうか?



「竹田の現象学は色々と批判されているみたいだけど、他の学者が書いた入門書を読んだ限りそこまで内容が食い違っているとは思えない」


と感じたことが1度くらいあるかと思います。


厄介なことに、竹田自身は

「標準的な現象学のこの解釈は間違っている」

とはっきりと彼の著作に書かれているのですが、学者が書いた書籍には

「竹田の現象学はここが間違っている」

と書いているものがほぼ皆無なので、多くの人にとって具体的に竹田の現象学がどこが間違っているのかを知ることがなおさら困難になっているように思えます。

(まあ、学者側からしたら仕方がないのかもしれませんが・・・)


また、竹田の書籍のほとんどは初学者でも分かりやすく書いているので、そこで‘’分かった‘’ということが無意識に(バイアスがかかったかのように)フッサール現象学理解のベースとなってしまっている可能性が高いとも言えます。


決して「分かりやすい=正しい」という訳ではないので、そこは注意する必要があるでしょう。


ということで、この記事で竹田の現象学と標準的な現象学の解釈の代表的なものを2つ取り上げて、両者の違いを明確にしてみようと思います。


あくまでも私なりの解釈の上での比較なので、そこは予めご了承ください。



なお、私は決して竹田の現象学を批判しているわけではありません。


私が現象学に興味を持ったのは、多かれ少なかれ竹田の書籍の影響があるし、他の哲学者に関する情報を知りたい時には、竹田の入門書があればなるべく読むようにしています。

(特にヘーゲルの『精神現象学』を読んでいた時は『完全読解!ヘーゲル 精神現象学』にはだいぶ助けられました)


竹田の現象学は、多かれ少なかれ一般人にフッサール現象学への興味の視線を与えたことは確かなので、その功績は素直に讃えるべきでしょう。



※ 竹田の現象学と標準的な現象学解釈の違いを明確にするために、本来であれば両陣営の著作から引用しつつ話を進めるべきなのですが、今回はあえて引用は控えます。


理由は、出来るだけ端的に両者の違いを理解することがこの記事の狙いなので、多くの引用を記載してしまうと逆に違いを読み取るのに時間がかかってしまう恐れがあるからです。


両者の解釈を記載する上で参考にした書籍は

・竹田の現象学解釈:『現象学入門』NHKブックス 1989年



伝統的(標準的)な現象学解釈:『これが現象学だ』 著:谷徹 講談社現代新書 2002年


の2冊になります。


1: 両者の違いその1:<主観ー客観>の図式


竹田にとって、フッサール以前の近代哲学者は

・果たして主観は客観と一致するのか?

・主観が客観と一致するにはどのような仕方をしなければならないのか?

という「主観と客観の一致問題」が1つの哲学問題だったと捉えています。


しかし、フッサールの登場により主観と客観の一致はどうやったって確かめられることは出来ないとし、<主観ー客観>という図式を捨てて<主観>の内部に限定して、そこから成立する確信(妥当)の条件を解明するモードに変更したことにフッサール現象学の核心があると竹田は主張しています。



ここでポイントとなるのは、<主観ー客観>の図式です。

竹田の現象学は、この<主観ー客観>の図式を絶対的に取り除くことに力を入れています。

つまり、全ては<主観>のみで成立したものだけに焦点を当てて、そこから何がどのように確信と妥当性を持った条件が見いだせるのか?を最重要視していると見られます。



一方、標準的な現象学の解釈でいう<主観ー客観>の図式は、必ずしも取り除きません。


ポイントは<客観>を<主観>の前提として、<主観>はまだ<客観>ではないという意味での<主観>としている点にあります。


おそらく、これが両者の最大の違いです。

この違いが両者の現象学解釈が大きく異なってくる分岐点だと言えるでしょう。


竹田はこの<主観ー客観>の図式を取り除いた現象学解釈を1つの武器として、標準的な現象学解釈を批判します。


大雑把に言えば、

「その解釈は、現象学の肝である<主観ー客観>図式の撤廃の意義を理解しておらず、<主観ー客観>の図式による解釈だ」

というニュアンスで批判しているケースが非常に多いです。



しかし、もし竹田の言うように現象学の核心が「主観内での確信と妥当性の成立条件を解明する」だとしたら、<主観ー客観>の図式を取り除いてしまったら、竹田が言う現象学の核心はそもそも意味をなさないと思うのです。

逆に、標準的な現象学解釈でいう<主観>で考えれば、竹田の現象学の核心は意味をなします。


なぜなら<主観>はあくまでもまだ<客観>ではないという意味での<主観>なのですから。


2: 両者の違いその2 純粋意識に対する解釈


両者の最大の違いとして<主観ー客観>の図式を取り上げましたが、そこから生まれる異なる解釈の違いとして「純粋意識」が挙げられます。


竹田の場合、<主観ー客観>の図式を取り除いている以上、その図式がなぜ成立するのか(してしまうのか)までの過程は重要視していないことになります。

つまり、純粋意識については深く突っ込んでいないってことです。


一方、標準的な現象学解釈は、<主観ー客観>の図式が成立する根底にある純粋意識に立ち戻り(俗にいう「還元」)そこで志向性の作用などによる構成がどのような動きをしているかかを明確に示すことが重要とさせています。


しかし、竹田はこの解釈を退けます。


彼にとっては、現象学の核心は「主観内での確信と妥当性の成立条件を解明する」ことなので、それをするのに必要なのが「本質直観」と「知覚直観」であるとし、これらは絶対的に疑えないものであり、その疑えないものは純粋意識内で存在するわけではないとしています。

現に、竹田の多くの著作には「純粋意識」というワード自体は頻繁に登場しますが、今触れた内容以上のことを追求し議論するのはスコラ的議論だと言っています。


このことから分かるように、純粋意識をいわば支える先構成的なものも当然ながら竹田はあまり重要視していません。


多くの標準的な現象学解釈者やポストモダンを代表する人達は、先構成的なものを視野に入れ、時にはフッサール現象学の欠点を指摘することが度々あります。


しかし、竹田にとってはそういったことは無意味なものになります。

なぜなら、<主観ー客観>の図式が撤廃されている以上、それが成立する起源まで遡る必要がないので、起源が何なのかを議論するのはナンセンスで、大事なのは「主観内での確信と妥当性の成立条件を解明する」ことなんですから。

竹田の立場で考えると

「純粋意識より先のものを追求しようと高確率で<主観ー客観>の図式による解釈が生まれてしまう。だからダメなんだ」

というのが彼の意見だと容易に想像がつきます。


「本質直観と知覚直観は絶対に疑えないんだから、それを以上遡って何の意味があるんだ」

というのが竹田の考えだといっても的は外れていないと思います。


3: 竹田の現象学はミュンヘン学派と似ている?



以上、私が思う竹田の現象学と標準的な現象学の解釈の違いになります。


私の印象としては、竹田の現象学は限りなくミュンヘン学派の現象学と近いものがあります。

ミュンヘン学派とは、フッサールが1900/01に出版した『論理学研究』に影響され、現象学を志した人達が集まった学派です。


(同時期にゲッティンゲン学派、その後、超越論的現象学に影響を受けたフライブルク学派という学派もあります)


この学派の特徴としては具体的な体系についての本質分析や本質記述を重視し、アプリオリな本質に関する直観的な把握の方法を特徴としてます。


要は「本質直観」「形相的還元」を重視しているわけです。

よって、フッサールの現象学で言えば「現象学的心理学」の立場に留まっている学派になります。


しかし、フッサールにとっては現象学的心理学というのは、超越論的主観性(純粋意識)によって生まれてくるものなので、必然的にこの超越論的主観性による「構成」の問題が視野に入っていないものとしています。


最終的にフッサールとミュンヘン学派は互いに批判し合うようになりますが、まさにこの関係は標準的な現象学解釈と竹田の現象学解釈の構図と限りなく近いと言っても過言ではないでしょう。

そもそも、両者は異なった方法で現象学を目指しているので、どちらが正しいか早急に判断するのは無理があります。



フッサールとミュンヘン学派の関係は本当に面白く、フッサールが超越論的現象学になる最初のきっかけを与えた1人がなんとミュンヘン学派の代表格であるプフェンダーと言われています。


ちなみに、もう1人がリップスで、フッサールが彼らと1905年に議論を交わしていた時に「純粋自我」を学び、そこから超越論的現象学の構想が練られ始めたと言われています。

きっとこの時、フッサールはかつて超越論的現象学になる1つのきっかけを与えてくれた人達のことを、まさか数年後に批判するようになるとは夢にも思わなかったことでしょう。


4: 立松弘孝は竹田の現象学を評価している


数多くの学者が竹田の現象学を批判していますが、私が知る限り有名な学者で竹田の現象学を評価しているのが立松弘孝です。


竹田のお弟子さんの1人、苫野一徳の過去ツイートに立松弘孝が竹田の現象学を評価していると書かれていたので確かだと思います。

立松弘孝と言えば、フッサールの主要著作の多くを翻訳した人です。

(みすず書房から刊行されているフッサール著書ほほとんどは彼の翻訳です)

確かに、立松弘孝の現象学解説を読んでみると、どこか竹田の現象学と似て通ずるものがあると感じられる内容が多いです。



5: 結局、どちらが正しいの?


そもそも両者とも最終的な目的(目標)が違うので、どちらが絶対的に正しいかはあなたの立場(目的)によって変わると思います。


出来るだけ忠実にフッサール現象学を理解したいのであれば、竹田の現象学よりも標準的な現象学の解釈の方が良いでしょう。

学者の仕事は精確性が求められますし、文献研究となれば尚更のことなので、なるべく標準的な現象学解釈を学んでいくべきでしょう。


逆に、日常生活に活かしたいとか、今の自分の知識とミックスして新しい考え方とかアイデアを作りたいという人は竹田の現象学解釈の方が良いでしょう。


現に、竹田自身も標準的な現象学解釈をしなかったことで彼オリジナル?の「欲望論」を誕生させました。


いずれにしても、実際に解説書やフッサール著作を読んでみて、両者の解釈に自分がどういった感じ方をするか確かめてください。



■ さいごに


自分なりの解釈で竹田の現象学と標準的な現象学解釈の違いをあれこれ書いてきましたが、私自身もフッサールの現象学を学び始めた時は、両者の違いがよく分かりませんでした。

どこかの大学(院)に通っていて、もし現象学を専門とする教授がいれば、質問すればものの数分で両者の違いが分かると思いますが、一般人にとってはそれは難しく、私にみたいに悩んでいる人が多いのではないか?と思い、今回の記事を作成することになりました。


まあ、色々な解釈があるのが決して悪いことではないと分かりつつも、やっぱりどれが正しい解釈なのかを知りたいと思わずにはいられないのが人間の性なわけで、もしこの記事を読んで少しでも両者の違いが明確に分かってもらえたら嬉しいです。

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