心の健康へ「ないものねだり」ではなく「あるものありがたがり」を(エッセイ#7)
「ないものねだり」ではなく、
「あるものありがたがり」で生きていきたい。
私は様々なことで日々悩みながら暮らしている。家族、仕事、友人関係、趣味やスキルなどなど・・。悩む度に、最終的には「幸せとは何だろう」ということに帰着すると気が付く。
「幸せ」について調べてみると、世の中には、様々な助言やことわざのようなものが広がっている。それらに共通して言えることは、幸せは相対的なものであり、自分の認識(認知)次第であるということだ。
つまり、幸せを定義するものは自身の価値観であり、絶対的な指標によって測れるものではないということだろう(例えば年収が〇万円以上だと幸せとか、友人を〇人持っていると幸せ、ということではない)。
それは頭ではわかっていても、何故ふだん意識が出来ないのか。それは、基本的に「ないものねだり」であるからだと思う。他人と比べると、自分には無いものが浮かび上がってきて、羨ましさや劣等感に苛まれてしまう。
そのようにハングリーに乾いた状態は、元気に満ち溢れていれば、前に進む活力にもなろう。だが、精神にとって不衛生の一因になっているはずだ。
対して、「あるものをありがたがる」という発想は、本来とても自然なものだ。とくに、神教や仏教のような考え方が日常の中にある程度浸透している日本人にとっては馴染みが良いのではないだろうか。
すでに日本由来の「もったいない」という言葉もある。既にあるものを大事にしよう、という根元の視点は共通しているだろう。
この記事を書いている私の状況そのものが、「ありがたい」はずだ。自分の想いを書く場所があって、時間があって、文章に書くことが出来る。例えば今日の夜、自分の手が届く範囲で、何か美味しいものを食べることもできる。お風呂に入ってリラックスし、そのあと冷たい水で喉を潤すこともできる。そのような些細な自由が私には(今は)あるのだろう。
「ないものを満たす」よりも、「あるものに目を向ける。それによって出来ることを考える」方が気持ちが良いのではないか。十分条件とまでは言えなくても、それが幸せと感じるための、欠かすことのできない第一歩なのかもしれない。
そして、そう考えていくことは難しいことではないはずだ。なぜなら既に私たちは「もったいない」という感覚を肌で知っているからだ。
そう考えたら、焦りや悩みがすーっと後退していく感覚がした。
さあ今日は、何をしよう。自分に既にあるものを、ありがたがりながら。
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