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道路でスケボをするのはそこまで悪いことなのか 海賊版という抜け道

ツイッターをだらだら見ておると、こんなツイートが目に入った。なおツイート内容の良し悪しについて積極的に言及するものでない点、留意すべし。

『自宅謹慎でどこにも連れていけずストレスの溜まった子供が、道路でサッカーをして隣の家の庭にボールを蹴り込んでしまった。怪我も破損も無かったが、隣人には「もうここでサッカーをしてくれるな」と言われた。返す言葉も無いが、なんとなく世知辛いものだと思った。』

概ねこんな内容である。
さて、これを見て浮かんだ事は以下2つ。
1.道路でサッカーするのは危ないから世知辛いとかそういうハナシじゃないだろう。
2.世知辛いね。
アンビバレントです。

1は社会通念的に当然の感想であろう。子供を遊ばせるなら公園に行かせれば良い。道路で遊ぶにしてもサッカーすんな。ゲロ吐くぐらいの正論である。もちろんこのツイートに対する反応もこれが最も多かった。
一方で2はまた別のレイヤーでこのツイートを捉えた感想である。1で述べた圧倒的正論の一方で、このツイートの本意は社会通念的な正しさのせいで子供の純粋な行動を擁護出来得ないことへのささくれのように小さな違和感であろう。ツイートの前半部では、隔離期間という一時的な問題によって遊びへの真っ当なアクセスから遠ざけられている事が語られており、その状況下でなんとか遊びにアクセスしようとした試行や衝動そのものをも、社会通念において否定しなければならない、その事への違和感というものが明言化されない他意としてこのツイートから読みとれる。

そう考えた時に、スケートボードの事を思い出した。
オリンピックでの堀米某の活躍以降その人気を増していると言われるスケートボードだが、街中でスケートボードをする動画をYouTubeで見ると日本人のコメントには「迷惑」「危ない」というものが多い。一方英語ではそもそも町中でスケボをする危険性への言及すら無かったように思う。(動画内容にも依る)日本人の発想は至極真っ当で健全な事であるが、そもそもスケートボードがストリートから生まれたものである事を思えばおかしなハナシでもある。スケボはパークでやるものなんて人もいるが、ニワトリタマゴでもあるまいし、スケボの生まれる前からスケボ用のパークがあったわけがない。社会通念に照らせば、文化自体が真っ向から否定されるわけだ。

ウィキペディアによれば「道路とは、人や車両などが通行するための道、人や車両の交通のために設けられた地上の通路である。」
とされる。昔はそこが平地であれ山であれ森であれ、整備されていなくとも交通するに丁度良い空間をなんとなく道路と呼んでいたのだろうが、現代の道路は「人や車両などが通行する」という意味目的のために整備されてその意味を合理化、先鋭化して作られている。そしてこの場合、これ以外の意味を付与する事は容易でない。個人が道路に対して「遊び場」という意味を付与しようとすると、これは社会通念上正しくないとして叩き潰される。「人や車両などが通行する」という道路として本来の意味は強固で、「遊び場」が入りこむ余地は無い。
この新たな意味を付与する余地の無さ、遊びの無さ、揺蕩の許されなさの「世知辛い」は、俺も確かに感じる。

著作権もこうした世知辛い問題の一つだ。
俺は某ピースという週刊少年某ンプの怪物看板漫画が好きである。ここ数年で物語がクライマックスに向かっており、SNS上での考察の盛り上がりや話題性は天井を知らない。ネットによる拡散性の向上も相まって海外での人気もこれまで以上に高まっている。
この某ピースは作品の性質上ファンの間でネタバレが特に忌まれている作品の一つだ。それでも市場規模、人気の巨大さからSNS上での早バレの拡散は多く、大きな問題になっている。ファンの中にはネタバレ早バレに対して過激な言動を取る人も多い。

この早バレの多くは海外からの発信である。ワンピースに限らず、多くの漫画の早バレや無断掲載はその多くが海外からである。
調べると、そもそもジャンプが海外向けに最新話を同時公開できる公式のプラットフォームを作ったのは2019年の事である。それまで海外の人が最新話を読もうとすると海賊版や違法プラットフォームしか無かった。それからたかだか3年ほど、海外の人々にとってそうした行為への倫理意識が日本ほど高くないことは想像に難しくない。2019年以前、当時の彼らにとって最新話に対してアクセスする手段は無かった。その裏道としてネタバレサイトが存在し、盛況したわけだ。これはもちろん歓迎されるべき事では断じて無い。しかし、この裏道が存在しなかったら、その盛況が無ければ、集英社がそこに需要を見出して公式のプラットフォームを作り、いわば公道を整備する事も無かったのではないだろうか。

音楽にも同じような事が言える。YouTubeにアップロードされた楽曲、町中で流されるBGM。一昔前ならCDのダビングやラジカセでの録音。こうした海賊盤の音楽は、間違いなく多くの人々の音楽体験を形作ってきた一部であることは否定できないだろう。
ヒップホップのサンプリングやニコニコ動画のMAD動画など、白黒ハッキリした世界ではそもそも成立し得ないものも多い。

ツイッターの件に立ち返る。
では道路でサッカーをするのはどうなのだろうか。例えばサッカー強国のブラジルでは、選手の殆どが幼い頃にストリートサッカーに明け暮れていたと言われている。そこで下地を積んで地域クラブのアカデミーに入るのがよくある流れだ。文化や誇り、アイデンティティの一端を担う選手たちをストリートは多く排出してきた。そんなブラジルで現在の日本のように厳格な道路空間の管理が行われたとしたらどうだろうか。少なくとも一度文化としての途絶を経験するだろう。

もちろんこの仮定は極端だ。当然ブラジルと日本では土地の大きさや交通量に雲泥の差がある。文化的背景も違うし、率直に言って日本はより法治的でもある。
ミクロに個人の問題を捉えれば、やはりこのツイートのように日本の公道でサッカーをするのは悪であるように思う。
だがマクロに捉えれば「行き場が無くて道路でサッカーをしてしまった」は、社会の瑕疵から漏れ出た悲鳴であり、需要の表面化でもあるはずだ。
しかしそうした漏れ出る雫の一滴も許されないような、そんな世知辛さが蔓延している。SNSは個人の体験を話す場である。従ってミクロなレイヤーでの見地が、SNSで拡散されやすい。そしてエコーチェンバー的にその見地は強化されて、より過激に、より不可変になってマクロな影響力を持つ。物事はしばしばミクロとマクロで問題にすべき程度が違うはずだが、そうした別の視点が入りこむ余地は狭まるばかりで、この余裕の無さが世知辛い。

世の中には自分の好きなものに対して、物質的、経済的、あるいは文化的にアクセスする事が難しい人々がいる。
そうした人々に裏道としてそれを提供するのが海賊版だ。
そして遊び場としてのストリート利用は、いわば一つの海賊版だ。元々定められた用途を離れて、本来アクセスの難しいナニカへの裏道に利用する。真っ当な利用ではないから、経済面でも安全面でも社会的に正当化できるものではない。だが確かに誰かを世界と結び付けている。

海賊版サイトが無ければ、ワンピースは海外で今のような人気を獲得している事は無かったかもしれない。
ストリートサッカーが(暗黙に)許されなければ、サッカーはブラジルのような発展途上国ではなく経済的余裕のある先進国だけが独占していたかもしれない。
厳密な著作権が適用されていれば、多くの人は音楽に能動的に触れる事が無かったかもしれないし、そこから様々なアーティストも生まれていなかったかもしれない。
このような「文化的価値を産むから」という実利的な理由でなくとも、海賊版文化は好きなモノにアクセスする事の難しい人々にも公平に機会を提供する人権的な再分配機構として意味を持つ。

けして褒められたものではないが、そこには確かに意味がある。だが白黒ハッキリ規則を言明し、これに倫理を合致させていく事を良しとする潮流の中にあって、そうしたグレーな方法は、その価値すら完全否定されやすい。
でも、もし本当に海賊版が一つたりとも世の中から消えてしまったら。それは本当に正しいと言えるんだろうか。それは俺達にとって豊かと言えるんだろうか。あるいは金がなくてCDが買えない若者にとって。あるいはグラウンドなんて整備されているわけも無い場所に住むサッカー少年にとって。他の国の良くわからん漫画を心待ちにしてる人にとって。そして遊び場の無い子供にとって。
彼や彼女らのために俺は抜け道が必要だと思う。そうでないと世界は交わらないままだ。
だから世界にはもうちょっと曖昧でいて欲しい。

なおこの記事は海賊版やネタバレ行為を擁護するものではありません。ワンピースの早バレ勢○んでくれや。

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