モノクロの小学校
世界は広い。ただ世界を子どもは知らない。
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小学5年生の時、イジメられたことがある。
ある日突然の出来事だった。
理由は分からない。
直接的な暴力を受けた訳ではなく、
教室の全員から無視をされ始めた。
僕も僕で瞬間はあまり気にしなかった。
「いつか終わる」と考えていた。
しかし、1年間ほど無視は続く。
声を掛けても、不自然に無視だ。
徐々に徐々に心にそれは侵食し、
世界に1人だけ残されたような感覚に陥った。
僕の記憶から小学5年生が消えた瞬間だ。
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親には言えなかった。
先生にも言えなかった。
恥ずかしいことのように思えたから。
言ったら負けなような気がしたから。
ただただ同じように授業を受け、
ただただ帰ってくるその場所は、
本当に行く意味があるのか不思議になる。
勉強は学習塾で賄える。
運動は野球と水泳で賄える。
音楽はピアノ教室で賄える。
何一つとして行くメリットが感じられない。
ただ何も言わずに行っていた。
ほかに術を知らなかったのだろう。
透明な小学5年生の僕。
無味無臭な小学5年生の僕。
何の思い出も彩りもない小学5年生の僕。
今でも小学校はモノクロだ。
世界が小学校だけならば、
僕は存在していなかっただろう。
小学校の頃の夢を一切見ない。
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ただ幸いなことに僕の世界は、
小学校だけではなかった。
学習塾に行けば他校の話し相手が居る。
野球も水泳もピアノも同様に。
僕にはたまたま世界がいくつもあった。
心が休まる、心が潤う場所があった。
でも、そうでは無い人も多数いる。
世界はたった30人程度の教室だけ。
そう思える人は少なくない。
だから今でも、
イジメによる自殺は後を絶たない。
イジメのニュースを見ると、
胸を締め付けられる想いになる。
話せる人もいない。
信じられる人もいない。
そもそも自分がいない。
だったら、世界にいる必要はない。
そう思えてしまう。
僕は運が良かっただけ。
僕はこのイジメの経験から、
人と一定の距離感を保つようになった。
友人であれ、親であれ、妻であれ。
大なり小なり人は裏切る。
この想いは一生消えない。
だから友人は居ない。
ましてや親友なんて、
概念的なモノを信用しない。
会社での痛々しいパワハラも、
「人ってそんなモノ」と思えた。
(ツラくないと言えば、強がりだけど…)
僕は小学校5年生の体験で、
良くも悪くも人格が形成された。
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イジメられた人間の立場からしても、
イジメられた人にも理由はあると思う。
きっと僕の全てが不快だったのだろう。
悪く言えば調子に乗っていた。
浮かれていた。
だからと言って、
イジメて良い理由にはならない。
人から人生を奪ってはいけない。
人から個性を奪ってはいけない。
人から熱量を奪ってはいけない。
これもイジメられた経験者だから言える。
そして、僕はどんな人でも受け入れる。
(ある一定の距離感のもと)
これもイジメられた経験者だから言える。
だからもし個性を否定されても、
僕が代わりにあなたを肯定する。
あなたの個性は美しいと。
ちなみにイジメは小学校6年生で終わった。
僕をイジメていた主犯格が、
僕を庇った番長にシメられたからだ。
因果応報
これもまた世の定理なのかもしれない。
メガッパ
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