愛とは。

クリスチャンになってから「よかったな」と思うことのひとつに「愛」についての理解が、少し深まったことがある。

クリスチャンになる前、というか、そもそも神様や聖書なんて知らなかった頃は、「愛」について、教えてくれる人なんていなかった。

だから、自分なりの解釈でしか、その言葉を表現することはできなくて、口でいくらか「愛してる」なんてつぶやいてみても、その意味も、本質も、全然わかっていなかったな、と思う。


愛とは、見返りを求めずに、ただ自分を差し出すことである。


最近購入したお気に入りの本に、そんな言葉が書いてあった。「自分を差し出す?」「見返りがなくても?」そんな声が聞こえてきそうな一文だけど、私の心には、ぐさっと、刺さった。

あぁ、愛ってそういうことなんだよなぁ、と。

神様が私たちの前にきてくださったとき、私たちはみんな罪人だった(今もだけど)。なのに、なんの罪もない、汚れもなかったはずの神様は、その罪人の私たちのために、十字架にかかって死んでくださった。

見返りなんて、一生ないかもしれないのに。ありがたいなんて、誰も思ってなかったかもしれないのに。(裏切り者さえいたくらいなのに。)

もはやそんなことは問題でなく、神様は、大きな愛のもと、死んでくださった。救うため、導くため、あなたたちは、愛されていますよと、私たちに教えてくれた。

ノンクリスチャンや、聖書や神様に興味がない人たちは、この箇所をたとえどんなに紐解いたとしても、決して納得してくれないかもしれないけれど、神様を信じて、愛したいと願ったとき、私は、私自身が、この箇所を知ることができた。そして、大いに、感じることができた。

どれだけ自分が愛されてきたのか。愛とは、どんなものなのか。

今一緒にいてくれる人が、とんでもなく愛おしいと思う瞬間が、日常に幾度もある。けれど、それはいつの日か、喉から手が出るほど欲しかった日常のはずなのに、もうあの頃のように、必死にしがみついたり、ぐっとこらえなくても、大丈夫だなという確信が、なんだかずっとある。

人はいつか、離れてしまう。そして、そのタイミングは、自分たちだけで決められなかったりもする。

それでも、

ただ、自然体に、そばにいて、「幸せ」を感じられる。

ただ、普通にいるだけで、それだけでも、「ありがとう」と思える。

私の心の中にぶわっと湧き出す、そんなあたたかい感情に気持ちを寄せるとき、私は、自分がどんどんと「平安」で満たされていくのを覚えることができる。

ありがとう、出会えてよかった。

ありがとう、生まれてきてくれてよかった。

そんなありきたりな言葉の端々にも感じられる、神様の愛と、導きを、今一心に受けて、わたしはクリスチャンとして生きている。そんな誇らしさを胸に、今日も歩いていきたい。歩いていけると願う。

愛とは。きっと。

神様そのものだと、私は思うのです。

あなたがくれたこのサポートで、今日もわたしはこのなんの意味もないかもしれないような文章を、のんびり、きままに書けるのだと思います。ありがとう。