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私の周りは、なにひとつだって変わっちゃいない。

クリスチャンの人ってさ、例えば電車とかで
理不尽にぶつかられたらどうするの?

友人とそんな話題になったとき、あなたなら、なんと答えるだろうか。

「クリスチャンは、相手に愛が足りていないことを感じて、相手のためにお祈りしてあげます。」

模範解答的なものがあるとするなら、きっとこれだろう。

相手のために、祈る。たとえそれが自分にとっての悪害であっても。

なぜなら、それがクリスチャンだから、と言われると、頷くばかりなのだが、きっと、そうもいかないのが、人間の性なのだろうな…と、最近はそう思う。(そういう弱い心が罪への入り口、罪人の証なのだろうとも思うけれど)

神様を信じる、と決めてからの私の日常は、ここ2ヶ月ほど、いたって穏やかだった。声を荒げて怒ることも、わかってほしくて拗ねることも極端に減った、と思う。けれど、最近、そんな穏やかな日常にはそぐわないくらいの、横暴さと乱暴さに、被害を受けることがあった。

だから、その日はツイッターで、思わずクリスチャンの人たちにこう呼びかけたくらいだ。

これには実に様々なコメントをいただき、正直自分自身とっても励まされた。(回答をくれたみなさん、ありがとう…!)

そして、やはりその中で、クリスチャンの人たちの「祈り」と、聖書に書かれているミコトバの大切さを、ひしひしと感じたのだった。

結局、この日はみんなからのコメントで多かった箇所を読み返してみたり、ひたすらに神様に祈ったりしてなんとかやり過ごした。が、帰ってきてからの、パワーの消費量が尋常でなく、久しぶりに、昔の自分が出していた「ピリピリ」とした空気感に戻っていることに気づいた。

長時間の労働でクタクタになった体と、帰りの満員電車での人の多さに、久しぶりに会えた友人との会話もそこそこに帰宅につき、会話のないまま、シェアハウスに帰った後、自分の部屋に潜り込んだ。

「ひとりになりたい!」猛烈にそんなことを思い、そしてただひたすらに、自分の無力さと、このイライラした気持ちを、眠ることで紛らわせることでしかできなかった。次の日、朝起きて、すっきり心が晴れているかと思いきやそんなこともなく、前半は少しもやもやした気持ちで過ごしたまま、それでも後半は、大好きな食パンの香りとお散歩の力で自分を取り戻した。

…ように、思っていた。

今日のワーシップ礼拝が終わり、帰路につく途中、やはり、昔の自分が戻ってきていることに気づいた。(礼拝直後なのに…!)

言いたくもない一言を言ってしまう。

何気ない一言がいじらしい。

イライラして、もやもやして、でもこの気持ちをわかってくれるのは神様だけだと、口を噤む。

歯がゆかった。なんでクリスチャンになっても、私はこんなにも変われないんだろう。どうして神様がいるのに、私はわたしのままなんだろう、そんなことを、ぐるぐると頭の中で考えた。

そんなとき、ふと、思ったのだ。

「あれ、そもそも、私の周りは何も変わっていない。」ということに。

優しくなったと思っていた友人の態度も、歩く歩幅ひとつも、街の風景も、ふとした瞬間、綺麗だと感じる木々たちも、朝起きて、窓からかすかに入る木漏れ日も、ノンクリスチャンのときも、いまも、何一つ、変わっていない。

だとするなら、この平安は。

私がこの2ヶ月覚えていた安らぎは、なんだったんだろう。

「周り」ではなければ、「自分」ではないだろうか。
「出来事」でなければ、「感じ方」ではないだろうか。

そんなことを、ひたすらに、思ったとき、神様ってすごいと、神様の持つ力の偉大さに、驚いた。自分が、ここまで変えられているということ。何も変わっていないのに、変わった自分の変化に、神様はずっと寄り添い、影響を与え続けてくれていた事実。

毎日がこんなにも生きやすく、みずみずしいものに変化して行ったのは、他の誰でもない、紛れもなく「神様」のおかげだということを再認識したとき、そのあたたかさに、めぐみに、思わず胸が震えた。

と同時に、やはりいつでも、自分は自分に戻るのだな、ということも感じて。前の自分がいかに傲慢だったか、生きにくい毎日を過ごしていたのかを、ひしひし感じて、思った。「もうあの頃に、戻りたくない」と。

神様は、求め続けたものに与えてくれるという聖書箇所を、幾度となく繰り返して読んだ。けれど、求め続けたものに返答を返してくれるかどうかも、神様次第。その心のうちは、わたしたちが理解できる範囲をすでに越えておられるのだから、当然のことなのだけれど、祈ったことに対して答えが返ってこないとき、わたしたちは「どうして」と、途端に傲慢(ごうまん)になってしまう気がする。

「もしも神様が奇跡を一切起こされないとしても、恵みをこれ以上くれないとしても、神様を信じ、愛するひとりの人だと知り、信仰を持つこと、礼拝していくこと。それが大切なことなのです。それがリバイバルを起こす一つのチャンスなのです。」

今日の賛美礼拝で言われていたことが頭に残る。神様を信じるのは、なんのため?…良いことが起こるから?死後に楽園へ行きたいから?

・・・・・・ちがう。そうじゃない。

神様がたとえこの先、私に奇跡を起こしてくれないとしても、その奇跡を起こしてくださるお方だと知っている以上、信じてついていくこと。自分をへりくだり、神様を一番に想うこと。自分の教会や、自分の信仰心ではない、「神様に捧げる」自分自身を愛すること。

「なんだ、どこまでも、結局私には神様じゃないか。」そんな当たり前に気づいたとき、やはりそこから、私は変えられていることに改めて気付く。

神様って本当にすごい。神様の力を信じない者がいるなら、今の私の成長を見てほしい、とそう思う。神様はすごい。神様は、愛である。どこまでいっても、私は、神様に愛されて、神の子供として、生きていく。

だから、恐れない。昔の自分に戻ってしまうかもしれない過去も、疲れたときに出てしまうこのピリピリした空気も、恐れずに、生きていく。

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そんなことを思った、10月22日。

photographer by 松山歓己(プロテスタントクリスチャン




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