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『求道のマルメーレ』#1 第一編 孤島の二人(一)

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求道のマルメーレ

 もう猶予がない。私は凍えたような吐息を漏らしながら、油まみれの両手で髪の毛を掻き回した。岩窟の暗がりを、ただ一つのランプが照らしている。
 やつらの足音が聞こえるような気がして背後を振り返るのも、もう何度目かわからなかった。入り組んだ電子回路に汗が滴り落ちるのを間一髪で防ぐ。私をただの狂人と断定して、追放せんと狙っている浅慮な者ども。やつらがやってくる前に、私はこれを作り上げねばならない。目の前に横たわったこの人形に、命を吹き込まねばならない。
 ただ命令に従うだけの木偶であれば、作るのは造作もないことだった。だがそれではだめなのだ。私が作り上げるものは、外部情報を取り入れ、学習し、自己を修復し、自らの判断によって行動する、まさしく人そのものでなくてはならなかった。だがおそらく、理想とする最終型を完成させる時間は、私には残されていないだろう。だからなんとしてでも、自ら最終型へと進化するプログラムを備えた初期モデルだけは、完成させなくてはならないのだ。
 私は嗤った。それは狂人と呼ばれる孤独ゆえの自嘲であり、同時に、やつらの能天気さへの呆れだった。お前らにだって時間はないんだぞと叫びだしそうだった。そう、やつらにだって時間はない。だからこそ私は必死になってこれを作らんとしているのだ。皮肉にもやつらの足音に怯えながら。
 私は左手に持ったはんだごてを慎重に動かした。時間はない。私にはただ、覚悟だけがあった。
 全ては未来の安寧のため。残されるこどもたちの幸福のため。

 ——死後の魂が渡るべき世界というのは、本来、全ての生物に分け隔てなく与えられる楽土であった。本来というのはつまり、正道を外れた人類がそこから追放される前までのことである。
  だが、今でも一握りの人間には、楽土への道のりを知って地球に生まれ落ちることが許されている。かれらは死後、自らが地上のエレメントを統率する定めにあることを知りながら、それを口外することなく人として生き、記憶を保ったまま楽土に帰るのである。
  始まりの時代、ある者は言った。ただ異能であるがゆえに我らは神を自称した。さりとて、人類共通の咎を償うために勤めを負わされた我らは、囚人と呼ぶにも等しいのではなかろうかと。
  しかし、やがてそんな言葉は歴史の中に埋もれ、果ては人類が追放された理由さえもが、忘れられようとしていた——

第一編 孤島の二人(一)

 白夜は少し前に終わっていた。おかげで海と空との境界は無いに等しかった。砂粒のように散る星と眩しい月がかろうじて、その間にある果てしない距離を思い出させるくらいだ。
 崖に当たった波が砕けて白く散っていく。沖では凪いでいても岸の波は荒い。少し回り込めば波の穏やかな砂浜があるのだが、西の深い森を抜けなければならない疎ましさが、少女に岸壁の船着き場を選ばせていた。
 黒々とした海面の下に一点の灯火が揺れる。束の間、海がばくりと裂けて、波の間からランタンに照らされた濃い藍色の髪が姿を見せた。海水の塊を蹴って開けた火山岩の石段に降り立った少女は、くるりと回転してボブヘアとスカートを揺らし、灯りを持っていない右手を水面へと差し出した。
「おいで。」
 そう言って穏やかに微笑んだ少女の手を掴んで、長身の青年が波間から現れる。青年が岩場に足をかけると、海の裂け目がぴたりと閉じた。波しぶきがその後足を追いかける。彼のズボンの裾以外に、二人には水に濡れた痕跡すらなかった。
「おかえり、黒刃(くろは)。」
 少女が青年を見上げてそう言うと、黒刃と呼ばれた青年が微笑んで返す。
「ただいま。鋼(はがね)も、おかえり。」
「うん、ただいま。」
 鋼の緩んだ顔に絡んだ髪を指先で払い除けて、黒刃は言った。
「疲れたか?」
「ちょっとね。暑いのだけはいつまで経ってもダメみたい。」
 鋼がおどけて舌を出す。黒刃は黄色い目を細めてそれを眺めると、鋼の腰に手を添えて帰路へと誘った。
「帰ろう。早くシャワー浴びたい。」
「ありゃ、暑かったならもっと潜ればよかったのに。」
 目を丸くしてまつ毛をしばたかせる鋼から黄金色の灯りを受け取ると、黒刃はちろりと唇を舐める。
「いや、砂漠の方から工業油みたいなにおいがしてただろ。あれが髪に移ってるから。」
「そう? やっぱり鼻いいよね、黒刃って。」
「鼻炎持ちの代わりにな。」
「んふ、そうかも。」
 いたずらっぽく笑った黒刃にわざと軽くぶつかって、鋼は歩き出した。
 ざばりざばりと波が鳴く。空に浮かぶのは痩せた月だというのに、その異様な大きさゆえの明るさが全てを照らし出している。鋼の鮮やかなシアンブルーの双眸は、意地でもそれと目を合わせようとはしなかった。ただ交互に差し出される靴の先を見て、時折黒刃と会話をしながら柱状節理の階段を登った。
 崖を登りきると、盛りの過ぎた広い野原が姿を見せる。足元からは野花がはげてできた小道が伸び、いくつかに分岐していた。その中で西の森の際へと伸びている一本の道筋が、丘の麓にある芝の盛り上がりを示す。暗闇に目が慣れれば、そこから伸びた煙突のようなものが見えた。急傾斜の三角屋根を覆い尽くすように繁茂した緑の下には、黒く塗られた木の外壁がちょこんと座っている。二人は、その横にある小さな畑のジャガイモがどうこう、今年の薪の良し悪しから羊の足跡など、脈絡も他愛もない話をしながら歩みを進めた。その間、小道の脇に空いた半径三メートルほどの窪みに鋼が気を取られたこと以外に、談笑を妨げるものは一つとしてなかった。
 無意識に鋼が歩を緩める。顔を上げると、二人で住むにはやや小ぶりな家が眼前にあった。黒い扉をなぞり流木の取っ手を引けば、音も立てずに戸が開く。
 狭く暗い風除室を抜けると、途端に干した薬草の香りが漂った。
「ただいま〜」
 鋼が間延びした声で呼びかけても、月光で蒼く光る室内から誰かが答えることはない。代わりに灯火に照らされた黒刃が、玄関の扉にかんぬきをかけながら挨拶を返した。
「おかえり。」
 鋼のオフショルダーが振り返りざまに揺れる。その、外にいた時よりも柔和な微笑が、黒刃の瞳を捕らえた。ランタンの光に塗りつぶされて、月明かりが薄らいでいく。
 鋼は背格好のわりに幼く笑い、踵を返して水回りに向かった。異郷訪問のために束の間着ただけの礼服が型崩れしないよう、木製のハンガーにきっちりと掛けて、扉の開いたクロゼットに干す。そして再び踵を返すと、今度はキッチンの食器棚からガラスのコップを二つ取り出した。
 ランタンの火を蝋燭に移している黒刃の元までトコトコ歩き、ダイニングテーブルにコップを並べる。水差しを傾ければ、踊り出た水の表面が灯りを反射してきらめいた。コップの底から上がる無数の気泡を黒刃が目で追う。鋼は渦の静まった水面を少しも揺らさず黒刃に差し出した。素直に水をあおる黒刃を横目にコップに口を付けると、微かな森のにおいが鼻を抜ける。
「晩ご飯どうする?」
「ん……今食べると朝が食べられないからいいや。髪洗ったら寝るよ。」
「分かった。お水はちゃんと飲んどいてね。」
 そう言って念を押すように指を差すと、水を口に含んだままだった黒刃は高く返事をした。

「——鋼、起きろ。」
 そう言った黒刃に肩を揺すられ、鋼が色の溶けた目を開けると、天窓からは白んだ空が覗いていた。と、黒刃によってたくし上げられた夏掛けが、即座に視界を覆い尽くす。
「縮こまってじっとしてろよ。」
 自分をかばうように覆いかぶさった黒刃にそう言われ、鋼は意識が混濁しているかのような声音で返事をした。
「なぁに?」
「地震だ。結構揺れるかも。」
 そう黒刃がつぶやくや否や、耳が痛くなるような静寂が通り過ぎた。
 途端に現れた小刻みな横揺れが、徐々に振れ幅を増していく。ガチャガチャと食器がこすれる音を聞いて、鋼はとっさに手を振るった。たちまち止まったその音と入れ替わりに低いうねりがにじり寄って、次第に叫び始める。
「もう一段階、来るぞ。」
 堪えるように低く告げた黒刃の声に返事をした直後、落ちるような揺れと轟音が襲った。家の節々がミシミシと音をたてる。揺れはしばらくの間二人を振り回し、三十秒ほどで何事もなかったかのように静まった。
 黒刃がそろりと囲いを解き、恐る恐る頭をもたげる。はだけた夏掛けの向こうに、二時を示すネジ巻き時計の針が見えた。
「……こわ」
 黒刃が耳の後ろを押さえながら呟く。
「ね、びっくりしたね。余震の備えしなきゃ……今日、何日?」
 笑って返していた声が尻すぼみに途切れ、やや緊張した声色で鋼が尋ねる。ベッドから降りた黒刃は気にも留めず答えたが、直後何かに反応して東の方を見やった。
「どうかした?」
 鋼が再び問うと、黒刃は口をへの字に曲げる。
「なんか、霊道の方から変な唸り声みたいなのが聞こえたと思ったんだけど……きっと気のせいだろ。」
 黒刃の何気ない返事に、鋼は瞬時に顔色を変えた。東方を凝視するあまり薄く開いた唇が数秒押し黙り、震える。
「黒刃……灯りだ。様子見に行こう。」
 鋼がそう言いきるや否や、ランタンに火が燈った。黒刃は続けざまにベッドサイドテーブル上の水の瓶をひったくると、次の瞬間には肩から掛けたベルトに固定している。
 一方、鋼はくるぶしまであるコットンネグリジェの上に、薄手のカーディガンを羽織った。靴下とランニングシューズを履いて、寝ぼけた四肢の筋肉を叩き起こす。
「『蜥蜴』よろしくね。」
 先に支度を整えた鋼はそれだけ言うと、ランタンを引っ掴んで部屋を出た。黒刃も髪を適当にくくって階段を駆け下り、左手に革手袋を着けている鋼のこめかみに指を添えると、口早に何かを呟いた。確認するように自分のこめかみに爪を立てた鋼の右手が、次の瞬間、飛びかかるように二枚の扉を開け放ったのち、振り捌かれる。
 と、戸口を覆うように水の大玉が紡ぎ出された。鋼がその中に乗り込むと、後を追って黒刃も飛び込む。
 途端、二人を乗せた水の大玉は転がるように走り出した。接地していたその表面が急激な加速によって離陸し、空気抵抗と表面張力によって全貌が楕円形に偏る。迫り来る水の影に驚いたキリギリスは腰を抜かしたようにつんのめった。風を切る音が、ひらけた大地を駆け抜ける。
 切り立った崖の縁が見えた頃、水の大玉はようやくスピードを緩め、そして止まった。止まるとすぐさま、糸がほどけるように水の大玉が霧散して、二対の足がそっと草原の上に降り立つ。
 鋼によって掲げられたランタンが見据えたのは、東方にそびえる岩山。もとい、その麓にがっぽりと口を開けた洞窟だ。目を細くして注視すると、草花が伸びきって半ば塞がったその入口の奥に、暗闇の縁が見えた。そこから何か、生気を纏わないものの影がじっとりと伸びている。
 黒刃は注意深く眉をひそめた。
「やっぱりなんかいるな。」
「うん。ちょっと邪魔だから、相手お願い。」
「いいけど、鋼は?」
「多分霊道が崩れてるだろうから、そっちを——」
 続く言葉を遮って、オ、オ、ォ、と雄叫びのような呻き声が洞窟内に響いた。辺りには独特の臭気が漂っている。
 鋼はうっすらと笑みを浮かべ、一歩前へ出た。
「いいよ、出ておいで。」
 その弦を弾いたような声に反応し、呻き声の主は一瞬ぴたりと動くのをやめた。と思ったのも束の間、ザクリザクリと枝葉が裂けて、紫がかったボロボロの皮膚が姿を現した。
 それは人型の異形だった。まず見えたのは、細長すぎる手足と前に突き出た長い首。そして凹凸のない胴体。体表はほとんどが黒い粘液に覆われている。目は落ち窪んで、眼球と呼べるものは存在しなかった。その暗い眼孔が、一直線に鋼を見つめている。
 黒刃が直感的に眉根を痙攣させたのに反して、鋼は微動だにせず、ただその体をつまらなさそうに眺めていた。
「あれが例のゴーストね。できれば生け捕りで。戦い方は……まぁ、やってみな。」
 鋼がゴーストを見据えたまま意地悪く笑うと、黒刃がベっと舌先を出す。
「あのべたべたはくっついたら取れないからね。何かあったら呼んで。」
「了解。」
 ため息交じりに返した黒刃は、ベルトポーチに入っていた丸いカットのジェダイトを取り出すと、挑発する様に軽く投げた後でそれをかざし上げた。途端に鋼の瞳に釘付けだったゴーストの首が、ぐにゃりと曲がって宝玉に見入る。
「光物が好きなのか、お前。」
 ゴーストが低くゴロゴロと唸った。黒刃はその醜い姿から目をそらさないように注意を払いながら、宝玉を握った手でベルトの瓶に触れる。
「見る目ねぇな。こっちのがよほど珍しいだろ。」
 黒刃が下瞼を指でめくった瞬間、ゴーストは弾丸のように飛び出した。黒ずんで尖った爪が、一筋の瞳孔を宿した黄色い眼球をめがけて伸ばされる。
 刹那、ベルトに括られていた瓶の蓋が、パキュッという快音とともに開かれた。
「この身に応えろ、氷柱!」
 黒刃の声に応じるように、ガラスの瓶から水が飛び出る。液体であったはずの水分子は空中で素早く凝固すると、ゴーストの伸びた腕を貫き、その座標を固定した。集中によって薄く開いた黒刃の口から、鋭い呼吸音が噴き出る。
 密かに移動していた鋼は、それを遠目に見ながら微笑した。
「帰ったら復習かな……。」
 串刺しになった腕に怯みもせず逆の手を伸ばしたゴーストを目の端から振り切って、鋼は鬱蒼とした熔岩洞に足を向けた。
 虫食いの跡さえない深い茂みを踏み分けていけば、すぐに問題の箇所に着いた。面倒くさそうなため息が漏れる。
 視線の先では、洞窟に蓋をしていたはずの大岩が崩れ落ちていた。かつて岩があったところに沿って、苔の縁だけがわずかに残っている。さらに奥からは、不規則にビタンビタンと泥が散るような音が近付いて来ていた。さっきのゴーストとは違う甘ったるい臭気に、思わず顔をしかめる。
「香水?……こんなにキツいとちょっとねぇ。」
 鋼はランタンを持っていない手を軽く振るった。
 すると、空気中を走り回っていた水蒸気が急激に水に引き戻され、暴れまわりたそうに水滴の輪郭を振動させ始める。今にも爆ぜそうな緊迫を、鋼は指の一振りで弾き出した。高圧の弾丸が、緑の境界線を超えた下半身のないゴーストの頭部を破壊する。途端に黒い体は崩れ、粘液状になった残骸は煙とともに気化していった。鋼はそのあまりにもベタつく臭いに少しむせて、鬱陶しそうに顔の前を手で扇ぎながら、試験管で粘液のサンプルをすくい取った。
 そういえば、以前にも何か似たような臭いに悩まされたことがある気がする。鋼はひどく唐突にそんなことを思ったが、果たしてそれが何であったか、どうしても思い出せなかった。何度も経験したことのように思えるのに、懐かしささえ感じるのに、それがいつ、どんな時のことだったのか、まるで分からないのだ。
 鋼はしばし呆然と視線をさまよわせ、そして、ささくれが引っ掛かったような顔で目を伏せた。
 洞窟の中には、もう何もいないようだった。
「お見事。」
 突然降ったその声に鋼は驚き、しかしそれをおくびにも出さなかった。帰ってきた黒刃が右手を鋼の肩に置く。ほんの少しの間を開けてから、鋼は微笑んで振り返った。
「殺しちゃった?」
「いや、生け捕った。」
「よし、いい子。」
 からかうようにそう言った鋼は、黒刃にランタンを預けて洞窟に向き直った。風が鳴っている。鋼はわざとらしく肩をほぐしてみせた。
「それじゃ、塞ぐとしますか。」
「……大丈夫か?」
「ん〜? 平気だよ。」
 鋼の揺れる声音に、しかし黒刃は黙したまま視線を落とした。鋼の手を覆う革手袋が鈍く光を反射する。深く息を吐く音が響いた。
 碧眼が一つまたたくと、辺りがシンと冷え、空気中の水蒸気が小さく凍りつく。手袋を外した鋼はその中の一粒を摘まみ取ると、鋭く尖った氷の切先を左手の親指に押し当てた。プツリと音を立てて、できたばかりの傷口に血玉が浮かび上がる。その血を舐め取った口元が、ランタンの屈折光でてらてらと艶めいた。赤く染まった唇を震わせ、鋼は息を吸い込む。
「我がニェ——」
「何をしている。」
 だがその瞬間を、冷ややかな声が切り捨てた。

この度のお話、お楽しみいただけましたでしょうか。今後も、内容やテーマに対して責任をもち、読んでくださるみなさまに思いが届くよう、作品と真摯に向き合っていく所存でございます。 もしも支持したいと思っていただけるようであれば、サポートという形でお気持ちをいただけると恐縮です。