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『求道のマルメーレ』#2 第一編 孤島の二人(二)

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第一編 孤島の二人(二)

風が鳴っている。鋼はわざとらしく肩をほぐしてみせた。
「それじゃ、塞ぐとしますか。」
「……大丈夫か?」
「ん〜? 平気だよ。」
 鋼の揺れる声音に、しかし黒刃は黙したまま視線を落とした。鋼の手を覆う革手袋が鈍く光を反射する。深く息を吐く音が響いた。
 碧眼が一つまたたくと、辺りがシンと冷え、空気中の水蒸気が小さく凍りつく。手袋を外した鋼はその中の一粒を摘まみ取ると、鋭く尖った氷の切先を左手の親指に押し当てた。プツリと音を立てて、できたばかりの傷口に血玉が浮かび上がる。その血を舐め取った口元が、ランタンの屈折光でてらてらと艶めいた。赤く染まった唇を震わせ、鋼は息を吸い込む。
「我がニェ——」
「何をしている。」
 その瞬間を、冷ややかな声が切り捨てた。発声を中断した鋼の吐息だけが、喉に引っ掛かって細く長く伸びる。
 だが吐く息もなくなっては仕方がない。諦めた鋼が努めて柔和な笑顔で振り返れば、視線の先には鋼によく似た女が立っていた。大きな違いといえばその空色の髪の長さと、瞳が藤色を映していることだろう。女は長身の黒刃よりもさらに背が高く、表情のせいか灯りが下から照らすせいか、少し老けて五十代に見える。首から垂れた金のペンダントが、ランタンの灯りを反射して光った。
 鋼は一歩彼女に歩み寄って会釈をし、黒刃は一歩下がって鋼の後方で首を垂れた。
「女王陛下。こんばんはお休みにもならず自ら巡回をなさるとはなんとお優しいことか。獣たちもさぞ安心しておりましょう。」
 鋼が姿勢を正す。棘のあるその声色に黒刃は若干の反応を見せたが、分を弁えて口をつぐんだ。だが当の女王の目は波紋ひとつ起こさず、まるで無反応を貫き通している。
「何をしておるのかと、聞いたはずだが。」
 ゆっくりと、そして単調に語る口から威圧しか感じられないのは、どうも身長や口調の問題だけではないようだ。姿勢一つとっても女王は銅像のように堅固で、先程からほとんど全く動いていない。鋼は相変わらずのすました笑顔で洞窟の方を示した。
「先程の揺れで霊道を塞ぐ大岩が割れておりましたので、仮設ではございますが古術で結界を設けようとしておりました。」
「必要ない。それは私の役目だ。お前は家に帰るがいい。」
 間髪入れず、反論の余地を残さずそう命じた女王は、鋼の横をすり抜けて洞窟に相対した。彼女が両手を振るうのに合わせて、岩肌の結露や空気中の水蒸気が寄り集まっていく。
 鋼はその後ろ姿に深く一礼すると、黒刃を従えて踵を返した。水に支えられた大岩が地面を離れる音が聞こえる。洞窟からの死角に至るまで、鋼は振り返ろうともせず足を動かした。
 フクロウの鳴く声が西の森から聞こえてくる。草原の中ほどまでずかずかと歩いて、鋼の歩みはようやく止まった。
「どこに置いてある? 捕まえたやつ。」
 鋼が張り付いた笑顔のままで振り返る。けれども黒刃は
「あっち」とだけ言って森の方を指差した。
「……ごめんね。」
 足早に二、三歩進んでから、歩く速度を緩めた鋼が呟く。
「気にしてねぇよ。」
 素直について行く黒刃は、困ったような笑み交じりの声でそう言った。
 陸風に草原がざわめく。少し歩けば森の手前に着き、覚えのある臭気が漂い始めた。
「この木の裏だ。」
 黒刃が誘導するようにランタンを掲げて視界を照らす。鋼は回り込んで、示されたモミの木の幹を見上げた。
 けれど、その表情は一瞬で抜け落ちた。鋼の明らかな落胆に困惑した黒刃が木陰に回り込み、肩を落とす。ゴーストを吊るしていたのであろう枝からは、ただ黒い粘ついた液体が滴っているだけで、それさえも次第に臭気となって消え始めていた。鋼が前髪をかき上げる。
「全く……老練な嫌がらせをなさる。」
 そう言うと鋼は鼻で笑うようなため息をついた。文句の代わりに唇を触りながら、苛立たしそうに俯く。
 しばらくして、だがそれは不意に自嘲した。
「そりゃそうか。まだ許されてないに決まってるよな。」
 不穏にそう言った鋼の後ろで口を開きかけた黒刃が、しかしやはり黙ったまま様子を見ている。鋼は何度かその場で無音の足踏みをした後、自分の頬をむぎゅっと掴み、タコのように口を尖らせて黒刃の方に向き直った。
「かえうぉ。」
「うん。……ふふ」
 戯けた顔に我慢出来なくて、黒刃がつい笑みを漏らす。黒刃が笑えば鋼も笑った。それは先ほどまでとは打って変わって、幼く無邪気な笑みだった。
 家の方に向かって微風が吹く。鋼が帰路に着くため踵を返そうとしたその時、何かを思い出したらしい黄色の瞳が泳いだ。それを目敏く見つけた鋼が、じいっと見つめて待つ。と、黒刃は決まり悪そうに、ポケットから水の塊を取り出した。
「これ、割っちゃった。ごめん。」
 差し出された塊の中には、大きくひび割れたジェダイトが浮かんでいた。細かく砕けた石の周りには、黒い粘液がまとわり付いている。
「くっついたのも取れなくて。」
「あぁ、大丈夫だよ。でももらっとくね。」
 受け取った鋼は、それを手のひらで転がした。しかし、鋼がしばらくそのままで動きださないので、黒刃は居心地悪そうに自分の手を触った。
「これ、揮発してないね。」
 唐突に返ってきた言葉に黒刃が動揺して首をすくめる。
「そうだけど、役に立つのか?」
「少量でもサンプルにはなるよ。大まかな性質は一体目で実験し尽くしたけど、個体差はさっぱりだから。補修は免除だね。」
 鋼が手を伸ばし、トントンと黒刃の頭を撫でる。黒刃はそうされると、条件反射で頭を下げてしまうらしかった。
「帰ってこれ保管したら二度寝しよ。」
 鋼は眠たげに微笑むと、黒刃の手を取って引っ張った。大人しく着いていく黒刃が、ランタンを持つ手を下げる。
 白夜は開けたばかりで、まだ夜は短い。暖かいと思って岩山の方を見上げれば、それは逆光で黒々と染まっていた。鋼の表情が微かに陰る。あまり好きではない景色だった。特に今日のような、薄く靄がかかっている朝は苦手なのだ。水蒸気に朝日が当たって、輝く虹色のレースが一面に漂う。それが幻想的で美しいからこそ、むしろ鋼にとっては気味が悪いものだった。
 鋼が肩をさすったのに気付いたらしい黒刃が寄り添う。手を握りあって帰った二人は開けっ放しだったドアをくぐり、かんぬきをかけた。帰宅の挨拶を済ませ、鋼がランタンの火を蝋燭に移す。まだ薄暗い室内が橙色に輝いた。決まり事のように水を飲み、手を洗うと、二人は燭台とランタンを持って木の階段を上った。
 二階の奥に佇むクイーンベッドと向かい合った引き戸を開ける。鋼は薬草の匂いが充満した小部屋に入ると、取手の無い棚をツツ、と撫でた。指が止まると、その場所が四角く抜け落ちる。出てきた木箱の蓋を開けると、中には少しの水を入れた小瓶があった。
「ところでさ、答え合わせしたいんだけど。」
 ベルトを外してベッドに座った黒刃はそう言って、ポケットから割れたジェダイト入りの水の玉を取り出す鋼を見上げている。ガラスの小瓶の蓋を外す音が耳を引っ掻いた。
「完全な持論でしかないけど、聞く?」
「うん。」
 じっと見据える黄色の視線に、鋼は苦笑しながらジェダイト入りの水の玉を小瓶に収め、更にトポトポと水を注いだ。水の境界が溶け合う。
「偏見でも聞きたいと思うほどの知的好奇心があるのはいいこと。」
 こぼした言葉に蓋をするように小瓶を閉めると、鋼はそれを棚にしまい込み、保管室の引き戸を閉めて黒刃の横に腰掛けた。
 そして、ベッドサイドテーブルに置かれた分厚い日記帳を開いて万年筆を取った。
「待ってね。」
 鋼が言うや否や、筆先が紙の上を滑る音がし始める。黒刃は邪魔をしないように、踊るインクの香りを静かに味わった。
 やがて、分針が動く微かな音と共に筆が置かれる。鋼は黒刃に詫びを言ってゆっくりため息を吐くと、ペンだこのある右手を左手とすり合わせながら、まるで河流のように話し出した。
「人間特有の、目的の形骸化した執着が、霊道内で寄り集まり機能的な肉体を持った状態。俺はそれをゴーストって呼んでるの。」
 黒刃の視線がくるりと宙を舞う。鋼は笑って、右手で拳を作った。
「どんな生き物だろうと魂には核がある。ぶちまけられたら生きていけなくなってしまうような秘密や信念。あるいはそのためにならどんなに惨めでも生きていけるようなもの。今の俺にとっては、本当の楽園に到達すること、かな。」
 そう言ってはにかんだ鋼の右手に、ウォーターボトルから溢れ出てきた水が絡みつく。
「次に来るのが、人間なら人間っていう肉付け。選択とか感情とか。そういうもの全部ひっくるめて、核を覆ってるものが来る。それは核ありきで動いてるもので、そこには核に対する執心が存在する。」
 鋼が言い切ると、拳を覆った水は蝋燭の炎の白色を反射してきらめき出した。いや、それだけではない。木の壁の飴色を、黒刃の黄色の瞳を、鋼の手の黒い影を映し出していた。常に動き続け、同じものを宿すことはない。ただひたすら、様々に輝いている。
 けれど、それに魅入っている黒刃を差し置いて、鋼は球体の上にタオルケットを被してしまった。
「人間だと多くの場合、建前がこれを覆う。社会で生きていくために、より多くの人に好かれるような化粧をするの。俺はこれがあんまり好きじゃなかったからやめてしまったけど。ただ……最近はこっちばっかりが分厚くなってる気がするんだよね。」
「なんで? せっかく内側が綺麗なのに、隠すのか?」
 無邪気な顔で聞き返す黒刃に、鋼は寂しげに苦笑した。
「う〜ん、人が多いからかなぁ。数が少ないとさ、相手と自分が違って当たり前で、違うということを受け入れた上で相手の評価に移れるんだけど。あんまりにも人が沢山いると似てる人も増えてきて、似てる人同士でコミュニティを完結させられるようになってくるんだよね。見ないでいられるというか。結果、似ていないこと自体を受け入れがたくなってしまうんだ。閉鎖的になって外見至上主義に拍車がかかる。だからとりあえず初対面で嫌われないように、内側の色が見えないように塗りたくるの。自分を守るためにね。」
 穏やかにゆっくりとそう言った鋼の表情がかげった。学生時分の友人が、偶像の複製品と化していった記憶が不意に蘇る。
 ややあって鋼は思い出したように右手をひき抜くと、水だけで球体の形を保った。しかもその上に、手当たり次第に布を重ね続けていく。
「分厚い外装を作るんだ。内側が透けないほど何重にも塗って。そうやっているうちにいつか人は、他者との違いを失っていく。化粧をし続けることが使命になってしまって、自分でも何が自分を形作っていたのか分からなくなってしまうの。完全に自由だった選択は無意識のうちに他人の模倣にすり替わる。人間の脳は怠けるのが好きだから、見本通りに進むことに慣れると抜け出すのは難しい。そうやっていずれは、個として考えることをやめていく。これが人間にとっての第一の死だと、俺はそう思う。」
 そして鋼は、黒刃の視線を捕まえて微笑みながら小首をかしげた。だが瞳だけが爛々として笑っていない。
「さて、覆いすぎて自分でも見えなくなったこの内側。どうなっていると思う? 核を失った、核に依存していたものは一体どうなると思う?」
「それで、目的の形骸化した執着か。」
 にんまりと笑みを浮かべて鋼が取り去った分厚い布の層の下には、どす黒い闇一色の空洞を内包した水の塊があった。鋼の目の色も唇の薄紅色も、水で屈折した末に闇に吸い込まれて消えていく。
「死んだ生物の肉体は現世界、すなわち地球上で自然に返る。そして魂は霊道を通って、ここ幻想界でそのエネルギーをエレメントの循環に返す。幻想界への道を知らない人間の魂に対しても、迷子の魂が霊道で渋滞しないように、霊道に配置した聖エレメントで浄化分解を助けるっていう措置をとってきた。だけど、人口増加と戦争の影響なのか、はたまた別の理由があるのか、数十年前から魂が寄り集まるようになり始めたんだ。そうしてついに機能的な体が形成されるようになったのが数年前。それが最初の個体だよ。ただでさえ思考を放棄しがちな人間の魂が寄り集まって生まれたゴーストは、これ以上ない集団思考の権化だ。ゆえに個の思考を持たず、ゆえに良心を持たず、目的を伴わない執着心を満たすためだけに活動する。司令塔たる頭部を破壊されるまで。」
 蝋燭の灯火が身震いをした。鋼の組まれた指が、うっ血して鈍い色に染まる。左手の親指の傷から、再び血玉が染み出る。
「俺が最後に見た頃でさえ、人間のほとんどが自力で考えようとしてなかった。考えないで済むために進歩しているような具合だったよ。今、霊道から現世界を覗けば、きっともっと進歩した人間がたくさんいるんだろうね。……未来を想像するより、今を堪能する方が楽。社会の意識を変えるより、スケープゴートを袋叩きにする方が楽。現状に違和感を覚えても、やっぱり厭世的な自分に酔ってた方が楽。そういう、楽であるという麻薬に、みんな脳が溶け出してしまったんだ。」
 壁掛けの姿見に映る自分の顔が、鋼にはひどく歪んで見えた。微笑みを浮かべているつもりなのに、虚像はまるで鬼のようで、憤怒と嫌悪に染まっている。黒刃は黙したまま、鋼の横顔をじっと見つめていた。
 不意に立ち上がった鋼の足が、ネグリジェの裾を揺らして二、三歩ベッドから後ずさる。その瞬間、何の偶然か朝日が姿見に映りこんだ。逆光が背中を照らす。黒刃が薄目になって自分を見上げるのが見えた。
「考えない脳なんてただの肉塊だ。脳を働かせる気のない人間は、人間である意味がない。」
 独り言のように低くそう言うと、黒刃が激しく目をしばたいた。
 鋼は音もなく両の腕を彼の肩に伸ばし、そのままベッドに押し倒した。そして抗わず倒れた彼の胸に耳を押し当てるように抱きついた。一定の鼓動がお互いに滲んでいく。黒刃はやはり何も言わず、そっと鋼の背中を抱き返すだけだった。
「……寝よ。疲れちゃった。」
「ん、靴は脱げよ。」
 そう返されて、シャツに顔を押し付けたままモゴモゴと返事をする。黒刃は困ったように微笑んで、鋼を抱えたまま起き上がり、ゆっくり靴を脱がした。余った左手が鋼のこめかみに触れる。
「この身に応えろ、金継ぎ。」
 はっきりとそう唱えられ、術がうまく作用していることを認めると、身じろぎもしないでいた鋼は目を閉じたままはにかんだ。
「上手くなったね。」
「師匠が有能だからな。」
「ふふ、『雨蛙』もすぐできるようになるよ。」
「そうかな。」
「うん、毎日ちょっとずつね。頑張り屋さんだもん。」
 鋼はそう言いながら黒刃の肩に手を回し、子供をあやすように軽く叩いてから強く抱きしめる。体温が滲んでいく感覚に満足したらしい黒刃は、鋼を抱えて横になると夏掛けをたくし上げた。
「おやすみ。」
 穏やかにそれだけ告げられた鋼は、瞼を開けて上目遣いで小首を傾げる。途端に黒刃が含み笑いを漏らし、口を塞いだ。しばらくして離れた唇を舐めた黒刃が、鋼を強く抱きしめる。
「愛してる。」
 そう耳元で唱えられると、鋼は黒刃の首元に顔をうずめたまま呻いた。黒刃の背にしがみついていた指先がクッと力んで、小さく口ごもる。
「ね、黒刃……今の愛してるって、なに?」
 ぽつりとこぼれた問いかけの後、秒針が一つ鳴るまでの間が、鋼には嫌と言うほど長く思えた。黒刃がうーんと唸る。
「今のは……明日も鋼と、一緒にいたいってこと、かな。」
 そう穏やかに告げられて、鋼は改めて深くため息をついた。
「そっか……何度も聞いてごめんね。」
「構うもんか。何度でも言うよ。」
 笑いながらそう言う黒刃に幼く笑い返して、鋼はやっと彼の背中に立てていた爪を引っ込めた。
「ありがと。俺も黒刃のこと……いっぱい好きだよ。おやすみ。」
 黒刃が再び笑みのこもった吐息を漏らす。滲む体温に眠気が押し寄せる。
 寝息と共に瞼が落ちた頃、蝋燭の炎が不意に、ジュッという音をたてて消えた。

この度のお話、お楽しみいただけましたでしょうか。今後も、内容やテーマに対して責任をもち、読んでくださるみなさまに思いが届くよう、作品と真摯に向き合っていく所存でございます。 もしも支持したいと思っていただけるようであれば、サポートという形でお気持ちをいただけると恐縮です。