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『求道のマルメーレ』#3 第二編 背中に棲む獣(一)

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第二編 背中に棲む獣(一)

 傾いた日差しは黄色く染まり、次第に赤みを帯び始めていた。日の入りはきっと二十時半ごろになるだろう。すぐにでも使えるように手入れされた暖炉の柱には、飾り文字で九月二日と書かれたカレンダーがあった。山積みの薪も、その役目を待ちわびている。
 蝋燭の灯りに照らされて、焼き鮭の影が揺らめいた。みそ汁の香りが部屋に満ちる。湯気の上がる米が盛られた茶碗を行儀よく左手に持って、黒刃は一口食べるたびに顔中をほころばせていた。
「ちゃんと和風になってる?」
 柘榴のジュースを片手に頬杖をつき、鋼が黒刃をじっと見つめて言う。黒刃はそれを見返すと、口の中のものを飲み込んでから頷いた。
「美味いよ。特にこれ、好き。出汁の味がする。」
「よかった。今年もまた稲刈りさせてもらいに行こうね。」
 頷いた黒刃が煮込んだカブを頬張る。その表情が一層緩むのを見ながら、鋼は静かにジュースに口を付けた。
 だがしばらくして、碧眼が鮭を眺め始める。さらにその手が、無意識に口元を触りだす。
「……食べたい?」
 黒刃にいたずらっぽくそう問われ、鋼は自分でも驚いたようにピッと視線を上げて恥ずかしそうにはにかんだ。
「んふ、食べる。」
「いいよ。……ほら。」
 切り身の目に沿って箸が動く。手の上に分けてもらった紅色の身を口にして、鋼は嬉しそうに笑った。香ばしい香りが漂い、蕩けるような舌触りが塩辛さと甘みを混ぜる。
「また上手になったね。おいしい。」
「そうか? 捌くのは慣れたけど。」
 黒刃はぶっきらぼうに大きな切身を口に入れた。
「そうだよ。黒刃の焼き魚、ほくほくしてるから好きだな。」
 そう言った鋼があまりにも大人っぽく笑うので、呻くように返事をした黒刃は目をそらして唇をすぼめた。その上、ちまちまと米を集め出す。鋼は足を組み、それを肴にちびりとジュースを飲んだ。
 不意に、小鳥の群れの声が窓を横切る。鋼が窓の方を見やると、東の空が薄い桃色に染まっていた。ビーナスベルトだろう。鋼はその幻想的な色合いに耐え切れず、やはりすぐに視線を戻した。
 すると、黒刃が今度は白米を頬張っている。普段からよく食べるが、今日はいつにも増して食が進むようだ。故郷を思い出すからなのか、それとも単に鋼が得意だからか、東洋食を好むのは昔から変わらない。今度はラーメンでも取り揃えてやろうかなどと考えながら、鋼は器用に動く漆塗りの箸を眺めた。
 コチリコチリと鳴る秒針の音に、時折食器が立てる微かな音が混ざる。ラーメンスープの作り方を誰に教えてもらったんだったかと鋼が悩んでいた頃、食卓に向かって挨拶した黒刃は頭を上げて美味かったと笑った。その幸せそうに緩んだあどけない顔を見るだけで、心の深いところがくすぐったくてたまらなくなる。
 しかし鋼はふと、黒刃の口の端に粉を吹いたような肌荒れがあることに気付いた。
「……そろそろ?」
 自分の頬を指でつつきながら尋ねると、示された口元を撫でた黒刃が視線を泳がせる。
「あ〜、多分。今日か明日。」
「分かった。夜出てく時、起こしていいからね。」
 黄色い目が伏せて呻く。見え透いたごまかしに鋼は苦笑したが、何も言わなかった。
「早く日記書いちゃえよ。」
 口を尖らせた黒刃が鋼の手元を指す。すると鋼はハッとして、取り繕うように
「そっか、そうだった」なんて言いながら笑った。
 再び筆を執って、メモを写し取るだけの箇条書きのような日記をつけ始めた鋼を見ながら、黒刃がうずくうなじを引っ掻く。その目はしばらくの間、何をするでもなくじっと鋼を見つめていた。

 フクロウの鳴き声が静かな秋の夜に響く。黒刃は、横向きで眠っている鋼にぴったりと寄り添っていた。だが目をつぶっているだけなのだ。手足の筋肉が突っ張ったような感覚が邪魔をして寝付けなかった。それが一時間も続けば、もう諦めるほかない。
 目を開けて、天窓から薄雲のかかった夜空を確認すると、黒刃は鋼を起こさないようにそっと体を起こした。身じろぎどころか寝息の乱れさえないままで眠り続ける鋼に目を細める。ベッドから降りた黒刃は明かりも付けず書置きを残し、靴と水の瓶だけを持って静かに家を出た。
 程よく湿気た外気が肌に絡みつく。靴を履いた黒刃は若干の肌寒さに腕をさすった。その拍子にまた、うなじの皮膚が突っ張る。ちょいちょいとそれを引っ掻くと髪を一本に縛り、瞳孔をいっぱいに開いて森の方へ足を進めた。
 必要以上に音を立てず、されど気配を殺さず、慎重に足を踏み出す。いくら慣れている森でも夜には化けるのだ。真昼でさえ妙にひんやりとして畏怖を感じる時がある西の森は、なおさら不気味だった。
 次第に木々の間隔が狭くなり、地面が苔むしてくる。もう振り返っても家は見えないだろうと、唇を舐める。
 その時ふと、月明かりが途切れた。瞬間ぶわりと悪寒が走って、黒刃は思わず動きを止めた。あるはずの騒音が消えているのに気が付いたのだ。他の動物たちが気配を殺している。次第に鼓動の方がうるさくなって、聞き取るべき音を認識できなくなった。重苦しい何かがじっとりとこちらを窺っているような気がして、嫌な汗が背筋を伝う。
 隙を見せまいと素早く振り返り、黒刃はその目を見開いた。
 今しがた通ったはずの獣道に、濡羽色の大きな影が居座っていた。それが、見る間に膨れ上がっていく。
「……お前、なんで」
 黒刃の指先が微かに震えた。影の口の辺りが笑うように裂ける。
「忘れたか? 我が名はレギオン。我々は複数であるが故に。そうだろう、第一使徒殿。」
 地響きのような声音に手足の筋が引きつる。
 すくんだ脳を無理やり叩き起こし、低く構えを取った黒刃が水瓶の蓋を開けた瞬間、左から何かが空を切る音が聞こえた。すんでのところで頭の角度を変え、こめかみへの直撃を免れる。が、無情にも目の前が暗転した。重力の働く方向が、体に対してゆっくりと傾いていく。
 遠のく意識をとっさに呼吸法で取り戻し、黒刃はなんとか右足を踏み出して体を支えた。視覚がわずかによみがえる。
「この身にこ——ッ!」
 だが、呼び声の瞬間を、脳を殴られるような衝撃が襲った。発声途中に右から帰ってきた塊が、水の薄い膜を突き破って顎先に喰らい付いていた。
「腑抜けたなぁ、まったく。」
 レギオンと名乗った大蛇の影が低く笑うのを聞き届けるや否や、浮かんでいた水の大粒たちがなすすべもなく重力に従う。間も無く黒刃は昏倒し、その体が苔をえぐった。

〔——ス! クルス、起きろ。早く!〕
 女の声に懐かしい名を呼ばれた気がして、どうにか瞼だけが上がった。黄色い瞳がうつろにさまよう。左手がズキズキと熱っぽく痛み、硬い轡が口の端に当たる。うつ伏せのまま黒刃がなんとか首をもたげると、視界を蹂躙して蠢く黒い肌が見えた。
「あぁ、やっと起きたか。」
 シュルシュルと舌を鳴らして、濁った声が降ってくる。人間も一飲みにできそうな口の先が黒刃の頭を小突いた。黒刃は額に脂汗を滲ませながら、何とかしなければと思い四肢を振った。だが左手以外が背中側で拘束されていることに気が付いただけだった。痺れて感覚もなかったのだ。仕方なく首をひねって不穏な左手の様子も窺おうとしたが、それは大きな黒い目に邪魔をされて叶わなかった。
「見ない方がいい。どうか動かさないでおくれ。千切れたら不便だから。」
 微笑むレギオンの目を、キッと睨み返す。黒刃は少しの躊躇の後、左手に力を込めた。何かが神経に当たる。激痛が脳にやめろと命令するのにも構わず、黒刃は息を詰めながらもがいた。
「こら、やめないか。そりゃそのうちには治るだろうが、十中八九傷が残るぞ。君が構わなくても、王女殿下は構うんじゃないのか?」
 子どもを叱るようなレギオンの声音に、黒刃の動きがはたと止まる。レギオンはその様を鼻で笑い、長い舌をチロチロと出入りさせた。
「せっかく隷従させて頂いているんだから、殿下のための体を損ねるようなことはしちゃいけないよ。」
 かしげられた首に向かって黒刃が唸る。哀れみのこもった黒い目は弓なりに歪んだ。
「地神神技はもとより、殿下御自ら授けていただいた水神神技も轡一つでろくに使えない君より、私の方がよっぽど秀でている。むしろ今までがおこがましかったと思いたまえ。」
 得意げにもたげられた大きな頭の向こう側に、磔になった左手が転がっているのが見えた。石の杭が手首の甲側から地面に向かって深く刺さっていて、多少引っ張ったくらいでは脱出できそうもない。出血もそこそこで、脈動の度に傷がうずいていた。額に浮かんだ汗が最初の傷から滲んだ血と混ざり、こめかみをもどかしく伝い進んでいる。
 と、突然、黒刃の背中にレギオンの重い頭がのしかかった。あばら骨がミシミシと音をたて、肺が潰れる。顔を真っ赤にして呻く黒刃の顔を、レギオンは楽しそうに見下ろした。
「なぁ、第一使徒殿よ。」
 不意に響いた声と共に頭が持ち上がる。急に胴体を押しつぶす重みが消えたことで咳き込む黒刃を気にも留めず、鎌首をもたげた大蛇の影はうっとりとした声音で独り言のように続けた。
「生来か後天かという違いはあれども、私たちは同じ、誉れ高きゴルゴーンの使徒であったよな。それが見ての通りこの様だ。私は仕える主人を失い、未ださまよい続けている。一体、どこで道をたがえたと思うね。」
 視界を塞ぐ真っ黒い肌がゾゾと蠢く。その目が、黒刃を改めて見据えた。
「神技代わりの人体模倣。私と君の差異なんてその程度のはずだ。だが、逃がしていただけたのは君だけ。水神王女殿下の使徒として、新たな名を授かったのも君だけ。その間、私たちは見窄らしくもがいていたというのに。……それは一体なぜだと思うね。」
 そう言って黒刃を見つめる瞳には、毒々しい嫉妬が渦巻いていた。黄色い目が愕然としてすくむ。
「思うに、その体がいけないのだよ。ここでの体なんて魂の区切りでしかないのに、主様方はお前にたぶらかされておいでなのだ。」
 手足がさらに強く絞められ、黒刃は再度体を押し潰された。轡の隙間からくぐもった呻き声が漏れ、痛みで涙が滲み出る。黒刃の苦痛に歪んだ顔を舐めるように、長い舌がチロチロと躍った。
「気付いていないとでも? 愛させて頂いてるだけじゃない。お前、恐れ多くも王女殿下に、愛して頂いてもいるだろう。」
 ぎょっとした拍子にかち合った目は、笑いながらじっとりと黒刃を見つめている。
「おやまぁ、図星なのか。あんなにも雄邁だったのがどうやってそんな腑抜けになったものかと思えば。……おいたわしや、王女殿下。まさかこんな輩に籠絡されてしまわれるとは。」
 嗤う声に伴って、影は膨れ上がり更に重くなった。あばら骨に入ったらしいひびがこすれて、体の内側からぎしぎしと嫌な音をたてる。脳幹まで駆け抜けた痛みが、息を詰まらせ冷や汗を噴き出させた。
 まるで正気じゃない。黒刃は痛みと失血で動きの鈍い頭を必死で働かせた。道理は通用しそうもない以上、逃げるしかない。左手は諦める。拘束を解いて鋼か女王のところに戻ればきっと助けてもらえる。だがそう考え至る己の情けなさに気付いた途端、黒刃は思いがけずひどく落胆してしまった。
 噛みしめた歯とこすれて、石の轡からこぼれた砂粒が口内に散乱する。抵抗の鈍った黒刃に、レギオンは冷めたような声音で呟いた。
「だがそれも今日で終わりだ。私がお前にとって代われば、殿下も目をお覚ましになるだろう。」
 音色の違う声音が六つ、不協和音のように混ざり合って響く。ざりざりとした波が鼓膜を揺さぶる。黒刃は我に返りもがいたが、嬉々として憐れむような笑い声の前に無力であることを薄々悟っていた。吐き連ねた悪態が、すべて呻き声に変わる。
 黒刃は身をよじって影を睨みつけ、そして息を呑んだ。蛇の頭に並んだ六対の瞳が、それぞれ黒刃を見つめているのに気付いたのだ。
 途端に蛇の影の輪郭が歪みだす。言葉を失った黒刃の瞳がさらに見開かれる。眼前にぼたりと、黒く粘り気のある雫が垂れた。
「最初から、私こそがお前であるべきだったのだ。」
 溶けだした体が黒刃を抱え上げる。影の隙間から岩壁が覗く。血など通っていないはずの黒い瞳が、猟奇的に血走って見えた。
 次の瞬間、津波のように押し寄せた粘液が黒刃の口を覆った。手首に刺さっていた杭が抜け、轡が取れる。黒刃は口を引き締め、拘束から逃れた手足を振り回してどろどろをかきむしった。だが抵抗も虚しく、胴体を締め上げられた痛みに口が開く。すかさず黒い液体が喉奥に押し入った。黒刃はそれ以上呻くこともむせることもできず、数秒の後に意識を手放した。
 猛った影の濁流が、最後の一滴までのど元を過ぎる。遠くで響いた波の行き来が鼓膜を揺らしている。
 しばしの沈黙を破り、穴の空いた左腕の爪先がピクリと動いた。思い出したように切れ長の目が開かれる。
 途端に青ざめた唇はわななき、ひきつった笑い声をあげた。お互いを打ち消し合ってほとんど音になっていない六つの声色が響く。ふらつきながら立ち上がったレギオンは、たどたどしく振り返った。
 その時、風向きが変わった。ランタンの熱が生んだ気流のせいだった。鎖が軋み、灯りが振られる。揺らぐ炎に照らされた鋼は、無機質な顔でそこに立っていた。

この度のお話、お楽しみいただけましたでしょうか。今後も、内容やテーマに対して責任をもち、読んでくださるみなさまに思いが届くよう、作品と真摯に向き合っていく所存でございます。 もしも支持したいと思っていただけるようであれば、サポートという形でお気持ちをいただけると恐縮です。