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【短編小説】ビビットカラーと除湿器⑤

 彼女は次の日から、本当に除湿機を背負う生活を始めた。
 今日は日曜日だった。昨日の大雨の雲は僕たちが寝ている間に巨人が思い切り息を吹きかけたように、どこかへと消えてしまっていた。しかし、湿度が高いのは相変わらずで、昨日見た笑った顔が嘘かと思えるほどに今日もまた朝から眉に力を入れ、不自然に朝食を食べる彼女が僕の目の前にいた。
 今日の朝食は、彼女がこの地域で一番だというパン屋の食パンだった。昨日の大雨の中、わざわざ家とは反対方向のそのパン屋に立ち寄り、食パン一斤を購入した。彼女は雨の中、傘を肩にかけながらまるで決して濡れてはいけない綿のようにそれを腕の中に隠していた。彼女の腕の中から、雨のカーテンをすり抜けて小麦の焼きたての香りが僕の元まで届いた。
 そんな思いをして購入した食パンにも関わらず、彼女はいつものように美味しいという素振りを一切見せず、蜂蜜の塗られたパンを機械的に食べている。
「うん、今日も美味しい」
 しかし、それが単なる杞憂にしか過ぎなかったことに、僕は安堵の籠もった息を吐いた。
「確かに美味しいね」
「特に、ここのバゲットが最高なの。フランスで食べたのとそっくり」
 と、食パンを食べながら彼女は言った。
「へえ」
「でも、あなたはそんなに興味ないでしょう? だって、パンよりご飯派だものね。でも、絶対に「僕はパンよりもご飯が好きだ」とは言わない」
「まあ、言う必要もないだろうし」
「会社でもそうなの?」
「まあ、本当に重要なこと以外はね。でも、それでうまく会社は回っているし、いいんじゃないかな」
「ふうん、そう」 
 彼女は中心部分を避けて話すのが得意だった。
 彼女は、蜂蜜を吸い込んでいるパンの上にさらに円を描くように蜂蜜をかけ、囓った崖のところから流れ落ちてしまう前に食べた。この蜂蜜は、オレンジの花から採ったもので、ほんのりとオレンジの香りがした。その香りは、蜂蜜の甘さを抑えてくれた。
 でも僕は、あまりこの蜂蜜が好きではなかった。蜂蜜は甘く、僅かでも柑橘系の香りなんて不要だと思っていた。あの特有の甘さを思い浮かべながらこの蜂蜜を初めて食べたとき、絶対に雨が降らないような青空の下で雨に濡らされたくらいには裏切られた思いがした。そのときから、どうもこのオレンジの蜂蜜を食べる度に、心の中で小さな渦ができあがるようになってしまった。
 朝食を食べ終え、出かける準備をして早速家を出ようと彼女のあとを追うと、その背中には、まるで数年前からそこに存在するのが当たり前だというような顔をした除湿機が背負われていた。ビビットカラーだけでも十分に目立っている彼女は、さらに除湿機を背負うことで完全なる唯一無二の存在へと駆け上っていった。外に出て人混みのある通りに来ても、彼女はなにも恥じるような態度を見せることなく、そこがランウェイかのように胸を張って歩いている。
 彼女はパン屋でバゲットのサンドウィッチを買い、僕はおにぎり屋でおにぎりのセットを買った。目的地は公園だった。遊具が3つほどしかない狭い公園ではなく、多くの家族連れが一日のうちの数時間を過ごすような、噴水や広場のある公園だ。  昨日は姿を隠していた太陽が、今は植物や土、コンクリートに人を焼き、強い光を降り注いでいる。公園に着くと空いているベンチに座り、彼女は背負っていた除湿機を太ももの上に乗せて早速電源を入れる。  ほとんど緑色のこの公園内で、彼女のビビットな赤色のワンピースは、暗めの絵画の中でまるでわざと入れられたワンポイントのカラーのように目立っている。



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