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【短編小説】ビビットカラーと除湿器⑥

「いい天気。湿度さえなければ」
 除湿機は彼女の周囲の湿度を容赦なく吸い、彼女は恍惚の表情を灯して目を瞑っている。
「湿気さえなければね」
 彼女は繰り返した。
「そうそう、今度のお盆ね、親が帰って来いってうるさいの。どうしたらいいと思う?」  
「帰ったらいいんじゃないかな?」
「そう思う? 本当に?」
「まあ」
 彼女は1度大きく溜息を吐いた。
「問題は、母でも父でも妹でもないの。親戚よ。親戚。昔から苦手なの。誰も逆らえない人が1人いるのよ。自分のことを桜子様、って呼ばせるの。その人が本当に苦手で、ここ数年はあれこれ理由をつけて帰ってなかったんだけど。でもついに、今年は帰ってきなさいって言われたの」
「そうだったんだ」
 そう言えば、付き合ってから彼女が実家に帰った話を1度もしていないことを思い出した。
「だからね、ついてきてくれない? もしあなたが帰省しないんだったら」
「僕が?」
「そう」
 まるで一切の問題など孕んでいないという態度だ。
「大丈夫?」
「大丈夫よ。だって、わたしたち結婚するんでしょ?」
 結婚、という言葉が、まるでピストルの弾のように剛速球で向かってきたものだから、僕は避けられずにそのままその弾を受けることになった。
「結婚?」
「え、しないの?」 
 結婚そのものと言うよりも、結婚のことをそれなりに考えていた彼女に対して驚きが沸き上がってきた。
「あ、いや。するよ、結婚」
「そうよね。それなら大丈夫。将来の結婚相手、って言えばいいから」
「そっか、まあ、それなら、分かったよ」  話が急に水星や天王星に飛び、それは光の速さよりも早く地球の公園のベンチに座っている僕のもとに戻ってきた。彼女は、相変わらず恍惚とした顔で自分の周囲の湿気を除湿機に吸わせていた。まるで、数十秒前の話が夢かと思わせるように。
 数週間後、僕たちは新幹線に乗って彼女の実家を目指していた。今日は珍しくビビットなカラーの洋服ではなく、全体をグレーで揃えた大人しめのコーディネートだった。大学時代の彼女が、数年のときを経て戻ってきたようにも見えたが、ここ最近のビビットな彼女を見慣れていたせいで、大人しめな色で揃えている彼女のほうが、鏡の中から出てきた偽物のようにも思えた。  持ち歩き用の除湿機も、今日は彼女の背中にも太ももの上にも存在しておらず、誰もいない部屋の中で留守番をしていることとなった。彼女は、自分の顔の周囲にある湿気を払うためか、しきりにうちわを使って小さなハリケーンを作っていた。
「先に言っておくけど」
 彼女は目元に力を入れながら、まるでこれから悪夢の始まりかというような口調で話し始めた。
「とても古いの、今から行くところは。まるで現代からかけ離れていて。とにかく、古くて窮屈で息苦しいの。だから、覚悟してね?」
「う、うん」
 新幹線を降りてさらに在来線に乗り、最寄りの駅に着くと今度はタクシーに乗って移動する。景色はどこにでもある、家と家があまり隙間なく建てられたーーかといって都会のように窮屈そうではなくどの家にも大小さまざまな大きさの庭が併設されているーーニュータウンのようだった。しかし、タクシーはその住宅街を抜けて野生の動物でも飛び出してきそうな自然豊かな道を進んでいく。住宅街からおよそ十分走ったところで、タクシーは静かに、本当にほとんど音を立てず静かに停車した。目の前には、門があった。
「正確に言うと、わたしの父の実家。とりあえず、にこにこしてれば大丈夫よ、とりあえずね」
 ビビッドな色の服に身を包んでいない彼女は、心なしかそのグレーの色に精気が半分以上も吸われたように見えた。彼女は溜め息を吐きながら門の横にある扉を開けて敷地内に足を踏み入れ、僕もそのあとを追った。不思議と、僕は今ビビッドカラーを心から欲していた。彼女の着ている黄色のパジャマで眠りたいと思った。



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