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【短編小説】ビビットカラーと除湿器⑦

 玄関の扉を開けると、1人の着物を着たご高齢の女性が、いかにもこの家の主であるというような威厳のある顔つきをして、しかしながら口角を上げ、立っていた。その人は僕の顔を凝視すると、小さく上品に礼をして、「どうぞこちらへ」と言った。手土産を持つ手から汗が噴き出すのを感じた。彼女が靴を脱ぐ仕草を寸分変わらずコピーして、その通りに靴を脱いだ。その間、強靭で鋭い視線が背中に刺さっているのを感じた。
「さあさあ、遠くからお疲れでしょう? お茶でもどうぞ」
 客間らしいところに案内され、席に着く前に手土産の彼女に指定されたお茶菓子を渡した。菓子を手にした女性は、部屋から出ていった。彼女と2人きりになった途端、心臓の動きが急に活発になったかのように、全身を血液が駆け巡っていくのを感じた。が、次の瞬間再び扉が開かれ、僕たちの向かいにさきほどの女性が腰を掛けた。
「はじめまして、井戸谷瞬と申します」
「はじめまして。ところで、瞬さんはありささんとお付き合いをされているとか?」
「ええ、そうです」
 声はどこまでも穏やかだった。
「それじゃあ、ご結婚なさるんですよね。もう2人もいい年のように見えるし」
 いや、それは、という言葉が喉までは出かけているものの、鋭い視線を浴びせられている今、「はい」としか答えることができなかった。
「よかった、うちにはまだ孫がいなくて。2人は東京住まいでしたでしょう? 孫の保育園から小学校、中学高校大学と既に情報収集はできてますから。いつでも訊いてください。孫にはいい教育を提供したいと考えてますから。もちろん、瞬さん、あなたの親としての教育もわたくしが」
「ああ、ええ、ありがとうございます」「一通りの礼儀作法、みっちりと教えてさしあげますからね。今後親として社会に出て恥をかかないよう」
 茶を飲むように勧められて口に含んだが、ほとんど味がしなかった。その後、うちに帰ってくるまでの記憶はほとんどなかった。ただ、ビビッドカラーに身を包まず湿度にもとらわれていない彼女が、本来の自分をほぼ殺した状態でいたというのだけは、記憶にこびりついている。
 家に着くと、彼女は盛大な溜息を吐き、貰った、というよりは強制的に手渡されたものを冷蔵庫に強引に詰め込んで自室に駆け込むと、数分後ビビットなカラーに身を包み僕の前に現れた。本来の彼女に戻ったのだ。先ほどまで白く見えた顔色も、今は薄っすらとピンクになっており血色が戻ったようだった。
「はあ、息が詰まるわね、本当。なんだか、結構いろいろと言われていたけれど、大丈夫?」
「ほとんど覚えていないよ。緊張しっぱなしでね」
「そう、それでいいと思う。いちいち覚えてたら、神経がもたないから。ていうか、わたしと結婚するって、真面目に?」
 やはりそこの話題に飛ぶか、と僕は一度深呼吸をして身体の内側を整えてから彼女を見た。
「真面目に。今すぐとかじゃないけど、絶対に結婚はするよ。君が今すぐにしたいって言うなら、今すぐでも構わない」
「そう……。でも今すぐは大丈夫。あんな息苦しい家族がいるのに結婚してくれるなんて、ありがとう」
「今更、他の人と恋愛なんて考えられないしね。面倒だから」
「なに、それが理由なの?」
「いや、違うよ。純粋に、君と結婚したいと思ってる」
「そう、それならいいの」
 彼女は、ピンク色のビビットなパジャマで顔を隠すと、僕をどついてきた。それも、まるで闘牛が赤色の布に衝突するときほどの力で。



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