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#204 「デ・キリコ展」の感想 時代を超えて共通する 24/6/17

みなさん、こんにちは。
今日は、「デ・キリコ」展を見て考えたことを共有します。

ジョルジョ・デ・キリコ氏は、20世紀を代表する芸術家です。哲学者ニーチェに影響を受けます。彼の思想は「形而上絵画」「古典技法への再回帰」「新形而上絵画」の作品となり、それがは芸術運動となって主張されます。

キリコ氏の作品は、ニーチェのニヒリズム(=絶対的な価値やモノはない)の思想の影響が大きく反映されているように感じます。キリコ氏も、「人も物の1つである、特別なものではない」的な考えを絵画作品に取り入れています。

それが代表的な「形而上絵画」(幻想的な風景や静物によって非日常的な世界を表現する絵画)のフォーマットとして生み出されます。それまでのおよそ常識は、「人を描くときには、その精神性が表現されている」、精神性を表現しているのが人を描くときのセオリーでした。その常識に対峙したのがキリコ氏の最初の主張「形而上絵画」のようです。

そこでは、「イタリア広場」や「室内」など日常的なテーマに描きながらも、違和感を覚える遠近法やモティーフのレイアウトによって、日常の奥=非日常を描き出す発想です。

そこには「世界のすべては、謎である」と、アウフヘーベンされた思想が含まれているように感じます。

わたしが印象に残ったのは、「マヌカン」(表情のない人形)をモティーフにした作品の数々です。形而上絵画のテーマの1つです。ミューズ(女神)、預言者、哲学者、詩人など、いろいろな職業・役割の人をマヌカンのモティーフにしています。

顔の表情があると、それまでの常識である精神性を表現することになることは想像に難くありません。まず精神性をもっとも表現してしまう表情をなくしたのだと想像します。

一方で、その表情がないことでかえって、作品を見る現代のわたしからすると、余計にその精神性をイメージしたり、解釈したり、とさせられました。表情を描かないことでそのことをむしろ考えさせる、そんな狙いがあったのかもしれません。

「絶対的な」「本質的な」ものはないとするニーチェのニヒリズム、そしてそのキリコ氏の「形而上絵画」ですから、本質をかえって抽出すると解釈することは、それに反するようにも考えます。

ですが、そうではないことを定義することで、削り出す思想があるように思えてなりません。それは、ニヒリズムの逆である、今でいえば多様である、ダイバーシティにつながるため、「マヌカンから何を感じるかは、多様でいいよ」と言われているように感じます。

マヌカンの多くの作品では、二体で、対になる(対照的)ものを、描きます。白と黒、自分と弟など、対照的に描いています。

そのなかでも印象に残ったのは、「ヘクトルとアンドロマケ」です。ホメロスの「イリアス」におけるトロイの攻防の一場面だそうです。戦場に出るトロイの王子・ヘクトル、それを見送る妻・アンドロマケの感情を、表情ないがゆえに、深く感じることができる作品と感じます。

日常の仕事・生活では、いかに相手の表情から感情を推し量るか、相手の気持ちを想像するか、をとても重視します。空気を読む、同調圧力もその1つです。ですが、表情ばかりに目が言って、かえってその感じ方、考えが朝かくなっているのではないかと考えさせられます。そのほかに五感で感じられる情報に無意識なのかもしれません。

さて、形而上絵画の後には、ルネサンスやバロック期の西洋絵画の古典に再回帰しています。古典的なモティーフの作品や技法に戻ります。作風がガラッと一時代前に戻った、と感じられる、その落差に驚きます。

これも、仕事に置き換えると、どの分野であっても、一通り自分なりの考えやアイデアを反映した取り組みを行ない、その成果も確立します。すると、1周回って原点回帰、「回りまわって結局これが大事かも」のような感覚になることにシンパシーを感じます。

さらにキリコ氏の主張シリーズは形而上絵画が「新形而上絵画」のフォーマットに進化します。過去に描いてきたモティーフを、新たな作品の画面に取り入れ、再解釈する作品シリーズです。この過去作品の再制作や引用は「贋作」として非難もされたそうです。

ですが、ここでアンディ・ウォーホルは「ポップアートの先駆け」と称賛します。

ここでも、今までと異なる主張やアイデアを生むと、既存の枠組み、パラダイムで生きている人たちが否定・反発する、現在のビジネス環境でも起こることに同じです。そして、新たなアイデアやサービスには、それを支持する人も現れます。自分のアイデアや意見を発信するからこそ、フォロワーが生まれる。リーダーシップの構図がこのキリコ氏のキャリアにも現れています。

キリコ氏のキャリアでは、途中に、絵画だけでなく、彫刻、舞台芸術にも分野を広げています。これは、先般のマティスとも同様です。絵画、彫刻、舞台芸術などの成果物の形の違いは、技術の違いともいえるように考えます。

マティス展を見ての感想も合わせてお読みくださるとうれしいです。

自分の主張やアイデアを表現するために、その表現技術を複数に学習し使います。それは、やはり現代のアプリケーション的な学びにも通じます。そして、そのアプリケーションも学んでアウトプットするからこそ、自分のOS、思考様式に気づき、変えていくのではないか、とも思います。

それが、キリコ氏の場合、ニーチェに影響された思想から得た「形而上絵画」が初めのOSです。それを1度アンラーンして、古典西洋絵画に回帰して、もう1度OSが入れかわり、その学びを経て、さらにもう1度、形而上絵画の技法を進化させたフォーマットが「新形而上絵画」と言えそうです。

1人の芸術家の作品展を見ることで、その人の一生を超濃縮、簡易版で感じることができます。歴史から学ぶ、の格言があります。キャリアについても同様と考えます。1人のアーティストの一生を作品を通じて、感じ、敷衍することができます。どんな時代、どんな分野でも、共通しているように感じます。

自分の主張やアイデアをカタチにして外に表現すること、それはリーダーシップの発揮と言えます。芸術の世界、ビジネスの世界、そして時代を超えても同じと考えます。
キャリア形成には、節目節目で、今までのやり方をアンラーンし、新たな分野を意図的に取り入れること、これも同じです。

技術、スキルのアプリケーションを新たに取り入れることで、思想や行動様式のOSが入れ替わります。逆もあります。OSに新たな思想を取り入れることで、それに必要なアプリケーション的な技術、スキルを学習獲得します。

チープな言い方ですが、とても考える材料の量をもらった企画展でした。

さて、みなさんは、気づきの仕掛けを自分の中にどのように取り入れていらっしゃいますか。
それでは、また。

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