#210 職場のノイズ的雑談は正統的周辺参加の学習効果を生む 24/6/28
みなさん、こんにちは。
今日は、職場における雑談とノイズについて考えます。
まず一義的に、職場の人間関係を円滑にする雑談は必要です。今回はその意味の雑談ではない文脈で考えたいと思います。
ときに雑談力を高めようのように使われることがあります。営業シーン、トリビア的な知識、表層的な教養、と言われる類のものです。この意味合いでは、わたしはほとんど意味がないと考えているため、その雑談、雑談力は不要と考えます。
では、どのような雑談が必要と考えるか、です。
それは、職場の同僚=他者の文脈を知る雑談です。たとえば、ある人が得た事象や情報自体をシェアすることや、その経験や情報をどのように感じたのか、考えたのか、をシェアすることです。
その意味の「雑」談です。雑多な会話、栄養的なノイズと捉えると、しっくりくるかもしれません。
今、目の前にあるタスクや起きている問題に対する直接的な貢献はしません。ですが、時間軸を長く見たり、より起きている問題をメタ認知したときには、その「雑多なノイズ」が意味を持ってくる雑談です。それは意図して、そうなるものでもありません。後々に意味づけられる性質も多分にあります。
なぜ、その雑多なノイズが必要と考えるか、です。
現在はインターネット技術の進展により、自覚的にならないと、自分に最適化された情報しか見ていない環境に置かれていると考えます。
あるいは、自分が何かを知りたい、解消したい場合、そのヒントや解にたどり着きやすくなっています。それが最も確からしい解かどうかに疑問をもつことなく、検索やAIへの投げ込みから得られるものが解と短兵急に解釈しがちになります。
タイパともいわれ、自分が欲しいと思った情報が得られれば、それで満足、解決と判断していまいがちです。ヒューリスティックが働きやすいインセンティブ環境に置かれています。そのことを自覚する必要があります。
ですから、雑多なノイズが得られるしかけをしておくことで、最適化した情報では得られない気づきを得られると考えます。
これは、正統的周辺参加の概念に近いようにも感じます。会議で意見を言っていないと非生産的だ、とするのではなく、参加者がほかの出席者の質疑応答を傍聴することで得られる視座や情報にもアクセスできることと類似します。
自分が必要としている問題の解答やヒントだけではなく、その周辺に点在している関連情報の範囲までを捉えておくことで、実はその本質が浮かび上がる、俯瞰してメタ認知的に捉えることで、違った事実や解釈を捉えることができる、そう考えます。
職場の雑談とは少し離れますが、たとえば、書籍を読むことはその感覚を想像しやすいのではないでしょうか。
昨今、「なぜ○○は××なのか?」的なタイトルの書籍をよく見かけます。その問いに直接的に回答している論考・論説は、実は書籍の中の、ほんの10数ページや、1チャプター程度と考えます。
そうすると、そのほか数百ページ、数万字の内容は、レイヤー1の表層的意味の雑談になってしまします。
しかし、そうではありません。その書籍の命題に対する、さまざまに関連する周辺情報の解説や論考です。それは、よりその命題をメタ認知して捉えたり、その周辺情報からアナロジーに発展して、違う事象や情報へのヒントや示唆をもたらします。
そして、それが自分の思考の発展につながったり、何かの事象の理解につながります。良い意味のノイズです。これは、正統的周辺参加に近いことが起こるわけです。
ですから、職場においても、たとえば自分が同僚や上長に「この問題はどのように解決したらよいか」と質問をしたとします。そのときに、直接的な答えだけで終わることが多いのは構いません。
ときに、その議題から派生して、その周辺にまつわる情報に話の方向性が雑多な方向に発展することが雑談としてあるほうがよいと考えます。やがてその雑多なノイズが、意味を持った文脈になることが創発されると考えます。
さて、やや概念的な話にはなりましたが、レイヤー1の雑談は不要ですが、レイヤー2の雑多なノイズはむしろ必要とわたしは考えます。
みなさんはどのようにお考えになりますか。
それでは、また。
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