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#205 現代アートの芸術祭「横浜トリエンナーレ」の感想 24/6/18

みなさん、こんにちは。
今日は、横浜トリエンナーレを見てきた考えたことを共有します。

横浜トリエンナーレは、3年に一度開催される現代アートの祭典です。今回8回目となり、国内の芸術祭の中でも長い歴史を持つそうです。2024年3⽉15⽇~6⽉9⽇の期間で開催されました。基点の横浜美術館は、3年の休館を経て今年リニューアルオープンをしました。

主催のコンセプトは「気候変動や戦争、不寛容や経済格差。私たちの暮らしを支えていた価値が、いま大きく揺らいでいます。(中略)すべてがわかったわけじゃないけれど、新しい扉を少しだけ開けた気がする。会場を訪れた方たちにそんな感覚を持ち返っていただきたい」です。

感じたのは、現在の社会情勢に対するメッセージの強さです。
戦争、それは国同士の多様を認めない不寛容から生まれる争い、経済格差による貧困がもたらさす衝突、これに対する強い反抗をもった作品が多かったように感じます。同時に、これから10年程度の中で起こり得るテクノロジーの進化に伴う影響を訴えた作品も目立ちました。

争いに対しては、世界各地のデモ運動、体制による弾圧への反対行動、日本でいえば1960年~70年代の新左翼運動や安保闘争、全共闘運動・大学紛争あたりを映像や写真でキュレーションされた作品が多く、展示されていました。

それ単体では、一見、写真展やドキュメンタリー映像作品です。しかし、それらが多種多数にキュレーションされていること、ほかの作品の訴えるメッセージ、たとえば、「体制から個に与えられている財産は何なのか」、と並べ合わせて見せられることで、企画展示全体から考えるきっかけを与えられます。

わかりやすい、近い未来に対する作品では、AIテクノロジーの進展により、なくなる仕事を表現した展示が印象に残ります。AIによってなくなる仕事・職種の言説は、至る所で有識者によって言われます。その象徴的な作品が、弁護士や会計士、経営者、事務職などの蝋人形がポリ袋に入れられた作品です。とってもわかりやすいのですが、シンプルに本質を突く表現としては、これほどに明快な訴求の仕方はなかなかないな、と感じます。

その作品が、体制への反対運動と同じ部屋に展示されていることに、また意味やメッセージを感じさせられます。

日本のアーティストでは、東日本大震災をきっかけにした、福島への想いや原発や経済発展がもたらす功罪を訴求した作品が多く見られました。

富山妙子さんの作品は、心に訴えるものがあります。富山さんは、少女時代を旧満州、大連とハルビンで過ごし、戦後、炭鉱、第三世界、韓国、戦争責任をテーマに作品を発表さました。韓国の民主化運動勢力と連帯し強制連行や従軍慰安婦など日本国家の戦争責任を問う作品を多数制作されたそうです。

今回学んだことは、今ここにある「現在」のたとえば体制や価値観を新しく変えようと行なう運動には、必ず「破壊」が伴う、ことです。

「創造と破壊」とは極めて本質を突いた言葉と、点と点がつながる、腑に落ちました。

社会運動にしても、ビジネス活動にしても、新しい価値を生もうとするとそこにはその「創造」のための「破壊」あるいは犠牲が伴うのだと突き付けられたように感じます。

犠牲が伴わないといけないのか、と問われればそれが良いとは思いませんが、伴うものだと答えるのも現実の真理ではないか、と感じるに至ります。

もう1つ私の中で腑に落ちたことがあります。
現代アートと古典?≒現代アートではないアートの違いです。

現代アートは、アーティストが、言いたいメッセージ・コンセプトが先にあるのではないか、と考えます。そのメッセージを伝えるのはどんな技法でどんなモティーフにするのか、とアウトプットの作品が決まる感覚です。バックキャスティング(逆算思考)ではないか、と考えます。

一方、現代アートでないアートは、モティーフとしてのテーマが先にあり、それらをたくさんに、多様な視点で描くことで、言いたいメッセージ・コンセプトが紡ぎ出されてくる感覚です。いわば、フォーキャスティング(積算思考)ではないか、と考えます。

あくまでも、素人のわたしの感想です。
さて、みなさんは思考をどのように開放されますか。
それでは、また。

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