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齢95歳の患者さんに、学校では教わらない戦前~戦後を聞いてみた。

今年95歳となる大石さんは、背筋もしっかりと伸び受け答えもしっかりとしておられる聡明なおじいちゃんです。歳のせいもあり、年々腰痛に悩まされ昨年は脊柱管狭窄症と診断されました。

施術中に色々なお話を教えてくれるんですが、是非にも現代の子達に戦争とはどういうものか?これから日本をどうしなければならないのか?を憂いておられます。大石さんからのお願いで、是非記事にして欲しいとのことで快諾しました。

大石さん (1)

私が今まで聞いてきた「横浜市中区の悲惨」差と比べると、また違う角度で当時が伺えます。

終戦時20歳、横須賀にある砲術学校へと入学し、これから日本がアメリカを巻き返し「神の国」と一歩近づくのだと確信していたそうです。鶴見出身の大石さんは「早く戦場へ駆けつけ、日本を誑かす逆賊を殺し、英雄となり陸軍将校になる!」を夢みていました。

読まれている方には「本当か?!」と思われるかもしれませんが、当時を生きてきた日本人の生の声ですのでご了承下さい。僕らからは想像しかできませんが、全てリアルです。

中区の患者さんの声はこちら⇒戦後70年。当時を知る患者さんに聞いてみた

戦時中について、一問一答

松:オバマ前大統領が、現職として初めて広島に訪問されましたね。当時を知る大石さんはどのようなお気持ちでニュースを観られていたんですか?

大:非常に勇気ある行動だと思いますよ。70年間一度も来なかったアメリカの大義名分などもあると思うのですけど、オバマさんは任期最後にやり残した事、また次期大統領に繋いで欲しいという思いで広島を訪問されたんだと思います。

日本から仕掛けた戦争ですから、どっちが悪いなど後から言ってますけど、市民を虐殺する兵器を使用したアメリカには憎しみはあります。ですが戦争という非現実的な時代の中で、終止符を打つ・本土決戦に持ち込まなかった、結果としてはしょうがないというのも分かります。

あの頃の日本軍は狂気の塊でしたから、ポツダム宣言を無視した軍上層部に振り回された国民に追い打ちとしての被害です。


松:原爆が落とされた日やその後日など、その情報はテレビもスマホもが無い時代どうやって知ったんですか?

大:私は砲術学校宿舎に寝泊まりしていました。何だか教官方が慌ただしく『金魚が死んだ!金魚が死んだ!!』と言っていたのを覚えています。8月7日のその日はラジオ等も普通でいつも通り『外地の士気上げ』が流れていました。つまり、軍に所属している私達にも知らされてこなかったんですね。

松:長崎のことも知らされなかったんですか??

大:そうですね。普段通りの訓練があり、終戦日に上官から『貴様らはもう要は無い。倉庫の物を持ち、速やかに帰省せよ』でした。何がなんだかわかりませんでしたが、後に終戦だと分かりました。

当日、上官達は軍用車を何台も持ち出し里へ帰ってしまったのです。上層部の持ち逃げが横行していたんですが、取り締まりも警察もありませんから、ネコババし放題だったんですね。中には車を仲間10人で持ち出し、会社を起てた上官もいますから。これは結構皆さん知らないことですが、横浜のヤクザの親分は私と同隊でしたよ。


松:学校の教科書には「第二次世界大戦勃発→原爆→ポツダム宣言受諾→無条件降伏→終戦」で終わってますが、終戦後は何があったんですか?

大:僕らは8月16日に砲術学校へ呼び戻されたんですよ。終戦と知ってから皆足早に「PX」と言われる質屋に駆けこんだんですね。軍隊の支給品を売りさばく為に、上官からの命令で荷物を運んでたんですよ。終戦になったら上官も将軍も無い訳ですが、だからと言っていきなり次の日には逆らえませんからね。

昼からは、軍隊の書類・書簡を燃やす命令が出ました。それから毎日一週間、海岸で顔が真っ黒になる程「たいしたこともない書類や紙」を燃やしましたよ。何のために燃やすのか分かりませんでしたが、基地にある全てを燃やしたんですね。後に証拠隠滅の為だと知りましたが。


0、シナ人(中国人)を「チャンコロ」と呼び捨てる差別が横行していた

満州事変から、朝鮮を植民地にし、現地の方達を沢山拉致(当時は拉致という概念が無かった)し、強制労働をさせていた。

小さい頃から、あの家族は◎◎だから何をしても良いのよ?と町内会全員一致。親が罵声を浴びさせていれば、子供も真似をする社会だったそう。学校にも中国人が5人程いたが、今で言う「いじめ」の格好の的だった。

朝鮮では戦争に勝利していたので、中華系人民をコキ使うのは当たり前だという認識。子供の頃からそう育ってきた。

ある日のこと「川に毒を盛ったチャンコロがいる!!探し出して川に飛び込ませろ!!」と町内会の人達は詮議もしないまま、疑わしい人物を次々川に飛び込ませた。大石さんの父親が容疑者となり川に飛び込んだそう。一命いは取り止めたものの、数人はドザ衛門になってしまった。当時は警察などまともに機能していなかった為、自治会のお偉いさんが決めたことに皆逆らえなかった。殿様文化が残っていたそう。

中国人にはアタリが厳しく、朝鮮人には寛容するケースもあった。


1、多少の病気でも入らざるを得ない。軍隊こそが地獄だった

20歳になると、赤紙が実家に届き「名誉」だと思ったふりをした。我こそは功績を揚げ、両親に幸たるご報告をする!と躍起づいていた。

が、先輩達は誰一人帰ってきていないので、本当は死にに行くものだと若者はうっすら考えていた。しかし、それを口に出してはいけない。周りがそうせざるを得ない雰囲気、万歳と言うしかなかった。少しでも反対すれば非国民とレッテルを文字通り玄関に貼られ、家族も無事ではすまない。

友だちに喘息持ちがいた。規則では【内疾患のあるもの来るべからず】と書いてあるが、心臓系以外の男はほぼ全員入隊させられた。鶴見町内の見回りおばさん達が、残らず若者狩りをするからだ。

入隊した後はその友達は苦しいあまり自殺したが、家族には【ご子息は名誉ある戦死を遂げました】と通達される。戦地にも行っていないのに。


暴力は度を越していた。


支給された帽子をタコ部屋に忘れたり、なくしたりすると「天皇陛下から授かった物を無くすとは何事か!!」と半殺しに合う。その為予備のストックを得るため皆が盗みをする日常茶飯事だという。便所に行く時も上から盗まれる可能性もあるので気が抜けないと。

上官は「貴様らの命は陛下の為にある!」と四六時中言っていた。訓練所では最初の一ヶ月は上官にシゴかれ、殴られ、陛下を崇拝するのが神の国の子の努めだと繰り返し言われた。


2、船も飛行機も無いのにどうやって戦う?当たり前の様に「敵機に突っ込めと」命令され華々しく散る先輩方

軍隊の練習に、拳銃など一切無かった。木製の代用品で、鉄製の物は触れなかった。勿論、海軍なのに船も無い。空軍には戦闘機も無い。ではどうして敵を殲滅するのか?


『小舟に浮かんで待て。己の身体に爆弾を巻き付け、敵機(船)が近づいたらスイッチを押せ』


当時【回天】という人間魚雷が名誉とされていた。【神風特攻隊】も名誉とされていた。作戦も糞も無い。片道のガソリンに、もしも還ってきたら不名誉であり『天皇陛下のご意向に背くのか?!』と罵られる。死にに行けといっているのと同じであるが、上官の命令は絶対の軍国主義だった為に、若く凛々しい先輩方は散るしかなかった。

砲術学校では、敵が攻めてきたらトーチカに潜り、肉弾作戦を敢行しろとのこと。タコ穴というものに手榴弾を10個程度持ち、そのまま自爆しろとのこと。

まさに、沖縄上陸の際、日本軍ならず市民までがやった惨劇をここで教えていたのです。


3、終戦後はカオスだった横浜・横須賀。黒人差別がある米軍に媚びる日本人

両親は長野県松代市在中だった。その為、日本軍大本営本部があることは極秘だったらしいが、軍人の出入りが激しいことから松代大本営が建設されているのは噂になっていた。近づくことができなかったが、終戦後にここに大本営ができていたらしいと伝えられて知った。天皇はこんな田舎にも来るのだと有難味さえ感じたという。

終戦後に、まず町中に現れたのは黒人兵隊達だった。『クロンボ』と影で呼んでいたが、先に見回りに来た後に白人兵隊達が決まって賑やかに現れたのだった。

当時は分からなかったが、アメリカ軍にも差別が当たり前の様にあり、斥候隊は黒人⇒安全確保した後に白人が来ることが通例。子供達は『ギブミーチョコ』を連呼し、白人兵隊が来るのを心待ちにしていた。

横須賀では兵隊の相手取る日本のお姉さん達がワラワラと集まってきて、それはそれは華やかな横須賀だった。衣笠・三笠公園前は連日お祭り状態で、日本人男子は近づくことができなかった。下手すると米軍に殺され、文句も言えない状態だったという。


4、闇市で凌ぐしかない、けれども買う金も無い。だったら盗むしかない

弘明寺商店街・横浜橋商店街・六角橋商店街は現在はアーケードで賑やかだが、終戦後は殺伐としていて『食うか食われるか』の時代。こぞって米を求めに、売り物として遠路から集まる「背中に着物を担ぐ女性の姿」が印象的だった。

就職口なんてものは無く、銀シャリを食べれるようになったのは戦後数年経ってから。盗みをする子供達も多かったが、捕まって死んでしまう子も多く見て見ぬふりをするしかなかった。日本人の心は忘れられ、我先に助かる道を選んでいた人が多かった。

私は運よく、同隊に横浜界隈の元締めをしている友に助けられて、ご飯にありつけることができた。先に逝ってしまったが、あの時助けられなければ餓死していた。今でも感謝を忘れない。


5、遺骨の中身は空っぽ。戦死した家族を迎えるのは空虚なもの

大石さんのお兄さんは、サイパン島にて戦死したと電報が入った。後に分かったことだが、マニラに行く手前、輸送船ごと撃沈された。

普通は駆逐艦と帯同のはずが、戦力を避けなかった日本は輸送船だけを何隻も送り付けた。3000人の内生き残った人は数十人。

終戦間際は日本の暗号は全て解読されていたらしい。お兄さんは敵の潜水艦で殺されたのではないかと捜索したが、未だに真意は解明できていない。重要書類を軍隊が燃やしたに他ならない。

後日、遺骨が送られてきたが中身は空っぽだった。。。

骨も無く、かけらも無く、ただ空虚だった。

四角い木箱に白い布が巻かれている状態での手渡し。こんなご時世、兄がどこでどうやって死んでいったのかは解らないが、戦死した家族に戻られるのは空っぽの木箱のみ。

大石さんは20歳で知識も無く、軍隊の言う事だからとその時は仕方ないと思っていたが、後年調べる内に、サイパン島やフィリピンが激戦して、全滅状態だと知る。


6、戦後一番大変だったのは教師??今の若者に知ってほしい事

『戦争とは何故ダメなのか?』
『戦争とはどーいうものなのか?』


この答えに大石さんは


『洗脳が人を変える』

とのことです。

小学生の頃、天皇陛下が東海道線を通る際に、授業はそっちのけで鉄道線路の草むらの掃除をさせられた。

神奈川の小学生は全員出席させられ「天皇が通過するであろう道は美しくなければならない」とのことで、草木を均一に狩ることを朝早くからやらされる。

いざ横浜駅を通過するとの知らせが入ると、教師たちが大声で「天皇ぉ陛下ぁぁ万歳ぁい!!×100」をおっぱじめ、学生達は「こうべを垂れろ!!」と、お辞儀の更に前屈した状態を1時間近くさせられた。

電車は一瞬で通り過ぎ、綺麗にした草など車内から流れる景色にしか無く、生徒達には見向きもしない。こんなことが日常茶飯事に。

何かとあれば天皇陛下ガー、と言う教師達の言いつけ通りにしなければならなかった。※教師にも戦争反対と言った人がいたが、秘密警察に拘束され学校に戻ってこなかった。

終戦後はこの教えにGHQが大鉈を振るい、180度変えなければならなかった。ついこの前まで日本は戦争に勝つ!なんて言っていたのに、悪いのは日本という教えに一瞬で染まったのだが、激動の中考えてる余裕も無かった。


大石さんのお話を聞いて

戦争を体験した人が年々少なくなってきています。生の声を聞けるのは貴重なことで、僕らの代で戦争を語れる人は少ないんですね。

日本軍が東南アジアに侵略していき、現地での食料調達に失敗し餓死をしていた事実を知る人は少ないでしょう。さらに疫病・梅毒が萬栄し、軍の半分が機能しなかったことなど、知る由もありません。

私は保坂正康さんの書籍を読んでいたので、何となくは想像できましたが、ここまでリアルに漕ぎ着けたことはありません。戦争体験者から僕らをみたら、幸せな時代に産まれて自由に暮らせて羨ましいと仰っていました。

大石さん (2)

夫婦激動の時代を生き残った二人の言葉には重みがあり、戦争で家族を失うこととはどういうものかを知ることができました。

ちなみに二人は同い年で95歳元気です。整骨院ではこのような貴重なエピソードも聞けるんですね。

生涯東京オリンピックを二回観る!と宣言しておられますので、開催される予定の2021年まで少しでもお手伝いができればと応援しています。

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