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戦後75年、戦争を知らない世代に知って欲しいこと

最初に、これは私が直接お話を伺って感じたことで、だから安保関連法案反対・戦争反対という安易に意見を言っている訳ではありません。私達『戦争を知らない世代』は

・戦争がどういうものか?
・戦後はどのようにして生きていたのか?

当時を体験していないので、何となくの想像しかできませんが、テレビやメディアで見るよりも当事者から聞かせて頂くと生々しいです。若い世代は祖父・祖母が戦時中どうやって生きてきたのか知るべきだと思います。

当時を生き抜いた方も、ご高齢になり語り部が年々少なくなってきました。他界された方も、95歳まで生き抜いた方もそれぞれ激動の時代を走った軌跡を聞くことができました。

当時勤めていた患者様のお話ですが、ご本人達はご高齢なので歴史には若干の誤差・誤りがあるかもしれませんが、ご了承ください。

焼け野原だった黄金町~伊勢佐木町を生き抜いたAさん

1945年5月29日に横浜大空襲があり、Aさんは現在関東学院高校がある近くに住んでいました。

横浜大空襲

参照:カナロコ

空を見上げると、トンボの群れの様にB-29が飛来し焼夷弾を雨の様に落としていく。川崎方面から空が段々オレンジ色に変わり、桜木町駅からこちらに向かってくる時には、人が大岡川に雪崩こみ逃げてくる。人が燃えながら川に飛び込むので、死体がびっしりと犇めき合っていたと。家から一緒に逃げてきた近所の方は、目の前で火を浴び『逃げろ逃げろ』と叫んだ姿を最後にとうとう会わなかった。

黄金町駅線路は地上から3mの高さにあるが、電車で逃げようと集まった人達の頭上に爆弾が落ち、ゴーゴーと電車よりも高い炎が立ち込めていた。それでも電車に乗ろうと燃えている人を踏み台にして、どんどん人のピラミッドが形成され、また爆弾が降り注ぐ。線路下~電車まで死体の山が積み上げられる光景が今でも忘れられない。

横浜大空襲2

参照:はまれぽ

家族ともバラバラになり、川の中で朝を迎えたが、大岡川から上がって周りを見渡すと、建物は破壊され、ぺったんこの焼け野原だったという。家もバラバラ、人がおはぎの様に黒く丸く固まっている。黄金町から横浜駅の線路が見える程、全て無くなったと。

瓦礫と炎の中、黄金町駅のガード下は死体の山が3m以上積み上げられていた。後の現在はお地蔵さんが設置されている駐車場だが、事あるごとに不思議な現象が起こり、地元の業者は建物を建てず(怪奇現象が起こり建てれない)に安らかに祀っている。

黄金町心霊現象

参照:はまれぽ

当時、伊勢佐木町付近は飛行場が広がっていた。隣が横浜橋商店街の闇市があった。陸軍の方が食料の配給に来るも、お茶碗一杯分。当時20代だったAさんは母から頼まれ、闇市へ。ぺしゃんこになった家の箪笥から母の着物と物々交換しお米を得て育った。しかしそれだけでは妹達を育てるのが困難だった。

関内の酒場で、米軍が連日飲みにくるので相手をする。日本人女性の客引きが多くなり、皆黄金町メリーさんの様だったと。妻が身体を売り、娘も後を追う様に働き、日本男児は米軍に手出しが出来なかったため、何度も苦汁を飲まされた。

黄金町メリー

参照:朝日新聞

戦後の黄金町は青線・ちょんの間・ヒロポンが横行し、毎日が荒んでいた。ただ、他から来るお客さんで次第に活気が出始め、戦後最大級の商店街に変貌したのよ、と。

お父さんはビルマに出兵したまま帰ってこなかった。戦死したと伝えられたのは、天皇陛下の玉音放送を聞いた2年後だったそうです。

空襲を体験された方は大岡川まつり・花見シーズンになると、寂しそうに大岡川を眺めます。Aさんが教えてくれたのは、こんな黄金町だけど紛れもなく戦後皆で立て直した所なのよ、皆の分もっと生きなきゃだめねと。


極寒の地シベリヤから生還したYさん

私の曽祖父もそうですが、戦地から生還された方はあまり戦時中の事を語りません。私も語るのが嫌なら聞かないことにしていますが、一度だけ教えて頂けました。

当時Yさんは満州に出兵していたが、日本が敗戦したと発表された後(現地の人達は知らなかった)ソ連軍に捕虜にされた。抵抗する暇もなく銃器を取り上げられシベリヤへ強制連行される。大勢の仲間と一緒だったが、日本に帰って来れたのは隊員中2人だけだった。(どの隊員で何人いたかは忘れました)

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参照:日常にツベルクリン注射を

与えられるのは毛布1枚と凍ったパンのみ。昼間は無駄な作業の繰り返し(凍った土に土豪を掘る命令をされたらしいですが、ロシア語は解らなかった)。一人また一人仲間が死んでいく。無くなった仲間のお墓をYさん達で造るのが日課になった程。

生き残れたのは『木の枝を噛む練習をしていた』から。※Yさんは登山家で冬山に登るメンバーを募る際、凍った梅を噛めるかテストしたらしいです。

この教訓を生かし、凍ったパンを噛める様に日々顎を鍛えていた。大半は栄養失調で噛む力が出ずにヤラレルんだと。寝込んでいる・食べれなくなった仲間のパンを取り合うことも屡あったと。

亡くなった友のブーツ・手袋・衣類を譲り受ける。ブーツ等に作業中1センチでも穴が空くと、凍傷になり死に直結する。そのため常に頑丈そうなブーツ・手袋・衣類を確保する必要があると。

日本に戻ってこれたのは終戦から2年後のことだったと。

曽祖父もそうでしたが、出兵された方が語ってくれることはほとんどありませんでした。それほど大変な場所だったのでしょうか、お酒に溺れるようになり小さいころは食べ物を残すと叱られていました。戦争を体験された方は食物を大切にしている様に見えます。


3000人の仲間を見送った戦艦大和の整備士だったTさん

戦艦大和の整備士だった16歳だったTさんは、この神艦で鬼畜米兵をやっつけるんだと真剣だった。不沈艦と言われる大和に搭乗でき、最高の名誉であり日本の命運が自分たちにあるのだと。

戦艦大和

参照:北の国から猫と二人で想う事

1945年(昭和20)4月7日に出された国からの命令に皆が躍動した。普段厳しい上官・先輩も肩を組み合い歌いながら酒を飲みあい陽気だった。2000艦が待ち受けていると解りながらも、この神艦大和で敵兵を鎮めるんじゃと。

最初に敵艦を発見し、3機の爆撃機がいると伝達したのがTさんだった。凄まじい集中砲火を浴び、魚雷の衝撃があり確認しにマストに登ると血だらけの先輩達だった。総員退避命令は出ない。上官達は皆大和と一緒に沈む腹だと目をみて理解した。

若い隊員が次々と海へ飛び込むも、魚雷の爆傷と上からの機銃掃射で海も血だらけで真っ赤だった。先輩が『船が沈みこむ前に飛び込め!引きずられるぞ!』と、一瞬後ろを振り返ると上官達に敬礼した。

海に飛び込んだものの、下が魚雷・上から機銃・大和の金属破片が飛び交い、先に飛び込んだ先輩が吹き飛んでいた。人生初の出撃が地獄だった。

Tさんは主に戦艦大砲の筒を掃除していたそうです。身体の小さい人が、筒の中に直接入り掃除していたそうです。仲間を置いてきた事が今でも心残りだとし、今でも供養代わりに船の整備仕事を大桟橋で続けています。(前職の当時の年齢が80歳だったので、今は亡くなられてると思います)


特攻隊を志願しようと葛藤したSさん

戦争中、男は戦地へ赴くことが誉だという時代の流れがあった。近所の兄貴達には赤紙が届き、狂ったように万歳万歳と言って送り出す。それがどこにでもある日本の風景だった。

当時Sさんは18才で学徒出陣が出た時には膝が震えた。友は我先にと親の判子を持って軍の検査に行く。町中が健全な男を狩る雰囲気で、行かねば非国民とされ、家族も非難されるからだ。町内会のおばさん連中が、お宅の息子まだ検査に行ってないのか?と見回りにくる。泣く泣く行く子もいれば、胸を張って行く子もいた。Sさんは皆が向かうのに自分だけ行かないのは可笑しいと、親を説得し宿舎へと向かう。

1944年当時は日本軍が優勢だと吹き込まれ、皆疑わなかった。新聞にもどこかの場所を奪還せしと書いてある。集まった学生はそれぞれの場所に配属になるが、Sさんはどこに行っても楽勝だと信じていた。

配属された場所(予科練)では、いきなり上官に全員殴られるという。何人かは夜中に抜け出す子もいたが止めなかった。

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参照:予科練 甲飛12期の事績

空挺部隊を志願したのは、父親がガダルカナル島で戦死したのもあってだ。米軍と戦うという心境は全員一致していた。数日だけの演習でいざ試験搭乗と言われて乗ったが、20人中3人が墜落し亡くなった。が、本人の操縦が悪いとされ根性で操作しろと全員殴られた。

演習期間が終わった後は、神風組を募る場所へと誘導された。部屋には何人か自発的に名乗る者もいたが、Sさんは名乗り出せなかった。名乗ったものには祝杯を挙げ、名乗らなかったものには執拗までに上官から蔑まれた。

操縦もままならない内に、国の最重要な作戦に出されるのは可笑しいと感じたからだ。ただ同時期に入隊した同期は徐々に志願した。志願せざるえない空気だったという。同期が残り数人になると、名乗らなければいけない流れになる。迷っている内に滔々名乗り出ることに。

A~Dに区別され、操縦技術が上手な人はAorBに当てられ、教官になる為か出撃しなかった。C~Dの操縦がイマイチの人達が出陣することが多かった。

決行は1945年8月20日とある。玉砕覚悟と意気込んだが、やはり怖かった。搭乗する前に日本が敗戦したと聞いて、悲しくも、嬉しくもあった。仲間は敵艦に突っ込んだ(と言われているが定かではない。当時は知るすべもなし)が、自分だけ今ものうのうと生きている後悔しない日は無いと。


もしも平成で戦争が起きたら

有名どころしか知りませんが、映画『永遠の0』『キャタピラー』『山本五十六』を観るまでは何となく戦争ってこんな感じかなと想像していました。

出兵されるまで~家族の気持ちをSさんは教えてくれました。憲兵が見回りにくるので、裕福な家庭・息子が一人っ子の家は地方に夜逃げする家族もいたそうです。主に、長男は内地に派遣。次男・三男坊は外地へ行くしきたりがあったと言います。時代がそうだから・・・という流れに乗せられた方が多く、本当に日本が勝つと信じていた時代。もし今赤紙が来たらと考えてしまいます。


広島原爆で家族を失ったNさん

凄まじい音がして外に出たら、大きな雲が立ちこんでいたわよ。

小学生だったNさんは、爆心地から遠く呉方面に遊びに行っていた。たまたまその日に母から何かのお使いを頼まれた。

実家は広島市街にあり、叔母と戻ると家は粉々になり、母と思われる”炭”があった。あまり当時のことを覚えていないというNさんは、その光景だけは今も残っていると。

生き残った親戚が集まり、Nさんの身寄りをどうするか、疎開先に送るか、このまま女学校に転入するかを揉めていたそうです。身寄りが無くなると、子供一人ではどうしようもない為、親戚中を回ったそう。どこの家庭にも食料が無く、芋にありつけるだけ幸せだった。どこの学校に行っても、広島出身と言うだけでいじめられた。近寄るなとか、シラミが移ると散々言われ暗い学生生活だった。

雑草を拾ったりしてたわよ!と明るく教えてくれたNさん。まるで『はだしのゲン』ですねと言うと、あの舞台が私の街そのものですものと微笑んでくれました。叔母の援助で横浜に出て、結婚したNさんは8月は毎年必ず帰省し供養するそうです。


原爆を落としたアメリカが正しい?

テレビにはお盆になると連日、原爆の真相が流れています。トルーマン大統領が日本でどうしてもソ連より先に実験したかったことや、日ソ平和条約を結んだままに見せかけ、ポツダム宣言を遅らせる裏工作など。原爆を投下した乗組員がインタビューに答えて『戦争を終わらせる為に、あの爆弾は正しかったと今でも思う』と聞いた時には衝撃が走ります。

実験で人の命を一瞬で無くすのかと。勝てば官軍、負ければ賊軍というように、敗戦国はただ受けいるしかないのかと悔しくもなります。

ですが、いつも原爆に注目されますが、本当の大量殺人は各都市を襲った大空襲です。一瞬で散った人数より、夜に焼夷弾で焼かれた日本人が多くいるのを忘れないでください、ともAさんに教わりました。

戦争を体験した方のお話を聞いて

黄金町は以前住んでいた場所なだけに、伊勢佐木町に飛行場があったと想像がつきません。毎年大岡川のお花見に行きますが、やはり未曾有の大惨事は想像つきません。

藤棚方面は防空壕があったらしいですが、防空壕に入っても助かる確率は良くて半分だそうです。上からの爆撃と衝撃でそのまま生き埋めにあう方もいたと仰っていました。雨の様に降り注ぐ中、生き残るのは”運”のみかもしれません。

地獄を味わった方々が、力強く土の上に再生させた街『黄金町』

戦後を象徴するように伊勢佐木町のお祭りは、神輿が50騎以上も出て、大変活気があります。

戦地へ行き、生き残った人は、何故か自責の念があるように思います。仲間と一緒に散りたかったという心境は私には解りません。家族を本土へ置きながら、奥さん・子供・恋人・親だっているでしょう。それなのにお国の為にと命をかけた方々には頭が下がります。

戦艦大和・武蔵のプラモデルなら知っていましたが、まさか横浜で乗組員にお会いできるとは。栄光なき不沈艦だというのも最近知りました。当時の海軍は政府に見放された印象がありますが、乗組員の方は本気で50万の兵力に4000人だけで挑んだのは衝撃です。

私は広島平和記念館・長崎平和公園へ訪れましたが、被害がどのくらいあったということしか解りませんでした。原爆後から復興にかけての体験をあまり知らなかったです。今では広島市内は大都市になり、もう一度寄りたい街です。

年配の方から当時のお話を直に聞けて、とても貴重でした。未だに信じられない部分も多々ありますが、私達は知っておくべきだと思います。日本人の誇りが持てた、熱くなれたお話をありがとうございました。

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