【兎角が紡ぐ】二人の距離【我が子お披露目のお話】

「暑い」
 午前中だというのに容赦なく照りつける日光をカーテン越しに感じながら、まだ覚醒しきらない思考が放った第一声はそれだった。
 ここ数日は梅雨ということで雨の日が多く、多湿と熱が合わさり、不快指数を上昇させ続けている。
 まだ6月下旬。本格的な夏はこれからだというのに、既に扇風機だけで凌ぐのは限界と言わざるを得ない状況に不安しか無い。
「なんでこっちにはエアコンが無いんだよ……」
 これは引っ越してから最初に迎えた夏、否応なしに突き付けられた現実だ。沖縄が冬でも内地に比べたら暖かいイメージがあるように、夏でも涼しいイメージのある北海道だが、それが幻想であると知った瞬間、足下から崩れ落ちるように絶望し、とにかく扇風機でも良いからと慌てて購入した。
 内地に比べれば涼しい。これは確かに真実なのだが、その要因は湿度の差であり、その差を除けば内地と変わらない熱波が襲い掛かるのだ。
「シンドい……」
 最初の一年で北海道の夏が猛暑であると知り、それは年々酷くなっているように感じる。
 正直な話、ここ数年で夏の死者は増えていると思う。少なくともお年寄りが耐えられるレベルは超過し、そもそも年齢や体力でどうこうなるものでもなし。
 仮にエアコンが備わっている家屋に居住しているのであれば、とやかく言わずクーラーを点けろ、と言いたい。出し惜しみしては、熱中症や脱水症状、最悪死に至ることだって有り得る。
 エアコンの備わっていない賃貸には、可及的速やかにエアコンの普及を推進するべきだ。
 俺が道知事であれば、何よりもまず、エアコンの普及を前面に選挙活動するに違いない。寧ろ何故それをやらないのか。
 そんなこんなと愚痴を吐き出しつつ、スマホの通知ランプが点滅していることに気が付く。
 どうやら「知人」からメッセージが来たらしい。
 友人と表現して差し障りのない程度の付き合いはあるその人だが、僕は心の中で敢えて「知人」と表現する。何故かと問われたら答えに窮するのだが、とにかく知人である「彼」からの連絡だ。そして、まるで僕がメッセージを開いたことを察知したかのように突如、テレビ電話の着信が鳴る。
 これはいつものことなので、着信を許可し、スピーカーモードに切り替えた。すぐに変声期を迎える前の幼い少年の声が流れ、画面いっぱいに映しだされる、可愛い服(ということくらいしかわからない)を着た中性的な顔。
『寝起き?』
 挨拶も要件もすっ飛ばして会話が始まるのもいつも通り。
「あぁ、うん。今起きたとこ。そっちは?」
『これから寝るとこ!』
「だろうな……」
 彼は唯。質問に返しながらパジャマの袖をフリフリ振っている。
「で、どっち?リスカ?アムカ?」
『ふっふーん、今日は両方!』
 何が面白いのか、満面の笑みで唯は袖を捲り、肌を露出させた。
 白いを通り越して青白い、不健康そのものと言った感じの柔そうな肌。その手首からは何本もの線から鮮血が零れ落ち、肘にかけても幾つもの裂傷が見られる。
「うわっ……」
『「うわっ」て何さー』
「いやいや、多分誰でも同じ返しすると思うぞ?」
『醒君だってやってたくせにー』
「昔の話だよ……」
 会話の通り、唯は所謂メンヘラというヤツで、俺も内地に居た頃はその一員だった。
『なんで辞めちゃったのさ』
「……特に理由はないけど」
 このやり取りもこれが初めてではない。そして、表向きメンヘラを辞める切っ掛けになったのも、唯だ。
『ユイを置いて一人で遠くに行きやがって、挙句メンヘラ辞めるとか、醒君最低ですね』
「仕方がないだろ、転勤になっちまったんだから」
『むー』
 スマホ越しに唯がわざとらしく頬を膨らませる。男だとわかっていても思わずドキッとしてしまうその仕草を見る度、性別を疑いたくなるのだが、本人がそう言うのだからそういうことにしておく、という不文律に則って深く追求することはしなかった。これは何も性別に限った話ではなく、生い立ちだとか交友関係だとか、病むに至った経緯など、互いのバックグラウンドに他者は言及しない。
 SNSを通じての交流が多い昨今、円滑な関係を維持するためには「何も知らないことにしておくこと」が重要なのだ。それはSNS上だけに限らず、オフ会等でリアルに顔を合わせる仲でも同じ話。
「そんで、寝なくて良いのか?」
『んー…もうちょい声聴きたい。ダメ?』
「ダメってことはないけど」
 だから、こういう発言をされると、少しだけ困る。
 僕が知りたいと思うことが、相手にとっては触れられたくないことかもしれないから。
『やっぱユイもそっち行こうかなー』
「やめときなって。何度でも言うけど、本当に暑いから。今時エアコンがまともに普及していない国だぞ?」
『だってー』
「だってじゃない」
『だったらこうしよう!ちゃんとエアコンの付いてるとこで二人暮らしするの!』
「引っ越すお金あるの?」
『ない!醒君が出して!』
「OD止めれば良いんじゃない?」
『それが出来る人はメンヘラにならないもん』
「五年も経つとその辺りの感覚忘れちゃうからなぁ」
 軽率な行為で、今の関係性が壊れるかもしれない。そう思うととても怖くて。
「メンヘラ仲間は大体内地多いし、こっち来ても俺くらいしか居ないじゃん」
『そりゃそうだけどさー』
 この流れも、これで何度目だったか。毎回何かと理由を作っては唯がこちらに来ることを押し留めているのも、見えない未来、不確定の未来、訪れないかもしれない未来の可能性に怯えているから。
「なぁ、唯」
 怖いくせに。怯えているくせに。それでも縁を切るわけでもなく。
 今の関係性を、距離感を、維持したいと願う。
 そんな身勝手さが、我ながら嫌になる。
「……唯?」
 すぅ、すぅ、すぅ、と、いつの間にか寝息が聴こえていた。
「おやすみ、唯」
 顔から少し離したところで握られたスマホは、唯の寝顔を画面いっぱいに映しだしていた。

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