【兎角が紡ぐ】屋上【徒然文筆家】

 『立ち入り禁止』 の張り紙を無視して、私はその扉を開いた。
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 大して見るものもない景色を眺めながら、誰も居ないこの場所で昼食を食べる。教室に居ても居心地が悪いだけだし、他に良い場所もない。詰まらない景色でも、雲を眺めてその形から連想されるものを思い浮かべたり、地べたに這いつくばる人間とは違って悠々と空を飛ぶ鳥を眺めたり、それはそれで悪くない。
 給水タンクのある高所へ向かうために、弁当箱片手に梯子を上る。せっかく見るなら、俯瞰できる場所が良いに決まってる。いつもの場所に落ち着いた私は、弁当箱を開こうとして、『彼女』の存在に気が付く。
 落下防止のために設置された柵の『向こう側』に、その少女は立っていた。向こう側の足場はとても心許なくて、一歩間違えればそのまま転落コースだ。そんな場所に立っているということはつまり、『そういうこと』になる。まさか目の前でそれが行われるなどとは思いもよらなかったけれど、そのことを無かったことにする力なんて当然備わっておらず、選択肢は、『景色の一つとして眺める』になった。わざわざ引き留めるのも野暮な話だと思ったから。
 とりあえず最初の目的を果たそうと、弁当箱の蓋を開いた。母が毎日、丹精に作ってくれるお弁当を食べるのに、この場所は似つかわしくないかもしれないけれど、それもやはり、仕方がないことなのだ。簡単に何かを『変えられる』なら、誰も苦労なんてしない。生きる上で必要なのは、諦観。諦めて開き直れば、大概のことはスルーすることができる。
 箸を取り出し、さてどれから食べようかと迷っていると、彼女と目が合った。もしかしたら扉を開く音で気が付かせてしまったのだろうか?などと考えながら、そのまま箸を動かす。変わらぬ味ながら飽きさせない工夫の施されたお弁当は、いつも通りに美味しくて、箸が進む。少ししてまた目を遣ると、まだ彼女がこちらを見ていた。何か用でもあるのかな?
 ほんの少しの好奇心。早々に食べ終えてしまったお弁当を包みに戻し、それを置いて、梯子を下りた。彼女の視線はやはり、私から離れない。ほんの少しの好奇心。だから私は、そのままフェンスの傍へと歩を進めた。
「飛び降りるんじゃないの?」
 配慮の欠片もない言葉でそう問いかけた私に、
「その通りだよ」
 彼女はそう返事した。
「じゃあ、どうして私を見ていたの?」
「君が気が付いてくれるんじゃないか、って。待ってたんだ」
「どうして?」
「さぁ、どうしてだろうね?」
 答えにならない答えを返して、彼女は微かに笑った。その表情はとてもじゃないけど、今から飛び降り自殺します、なんて人のものとは思えなかった。悩みの一つも無さそうで、その容姿だけでも人気を集めるには十分そうで、不思議に思った。
「自殺、したくないの?」
「自殺じゃないよ」
「そうなの?」
 どうやら、自殺というのは私の勘違いだったようだ。でも、それならなぜ、飛び降りるなんて言うんだろう?
「君にはそう見えたのかい?」
「こんなところから飛び降りたら、誰でも死んじゃうし、自殺以外にはないと思ったけど」
「あはは、その通り。飛び降りるだけだったら、死んじゃうね。ボクもそう思うよ」
「それなら、どうして?」
「んー……どう説明すれば良いんだろうね」
 困ったように微笑む彼女が何を考えているのか、よくわからない。
「実はボク、飛べるんだよね」
「飛べる、って?」
「言葉の通り、飛べるのさ。鳥みたいに、地面を離れ、優雅に羽ばたけるってこと」
「ふぅん……」
 やっぱり、何を言っているのか、よくわからない。人間が鳥みたいに羽ばたくなんて、まるで童話だ。
「じゃあ、早く飛べば良いんじゃないの?」
「困ったことに、まだ飛べないんだ」
「それはどうして?」
「風をね、待ってるんだ。ボクは鳥じゃないからね」
「風……?」
 戸惑う私を見て、何が面白いのか、三度、彼女が笑った。
「ただの冗談だよ。本当は君と話してみたいだけなんだ」
 大袈裟に肩を竦めて、彼女はその場に座り込んだ。足を空に投げ出し、首だけ振り向く格好で。ほんの少し、その背中を押してしまえば、簡単に落ちてしまうくらい、無防備に。
「貴方とは初めて会った気がするんだけど」
「いつも給水塔に居るだろう?」
「知ってたんだ」
「その通り。君はいつも給水塔に登って、一人でお昼時間を過ごす。そんな君のことが、気になったんだ」
「そう」
「君もこっちに来て、話さないかい?」
「まだ死にたくないから嫌だ」
「残念」
 ちっとも残念そうじゃない風に笑う。彼女の笑みはどうしてだか、陰りの一つもない。
 そのまま暫し、会話が止む。彼女の視線は私に向けられたままで、それがなんだか気恥ずかしくて、つい、目を逸らしてしまう。けどこのまま立ち去るには時間が余っていたし、フェンス越しに彼女と背中を合わせるように、そのまま地べたに座り込んだ。
 それにしても、彼女はどうして私なんかと話したがるのだろう。直接的な面識もない私なんかに。
 今日の空は、いつも見上げる空よりも幾何か、澄んでいるような気がする。
「どうしてボクが?って顔だね」
 背中越しに顔が見えてるはずもないのに、彼女はそんな言葉を口にした。
「その通りね。どうして貴方みたいな人が飛び降りようとするかなんて、私にはわからない」
「それはどうして?」
「どうして、って……」
 恵まれた容姿も愛嬌も持たない、私とは違う存在。
 その容姿だけで見る者の目を惹きつけ、からかうような笑みですら嫌味にならない愛嬌。悩みの一つも無く、クラスの人気者。そんな空気を纏っている彼女が、どうして飛び降りたいと思うかなんて、想像もつかない。
 コンプレックスの塊だという自負はある。だから彼女みたいな人間は好きになれないし、彼女みたいな人間が私と『同じように』感じることが、納得いかなかった。勿論、ただの偏見。
「恵まれてそうだから」
 だから、思ったことをそのまま口に出した。
「恵まれてる、ね。やっぱりそういう風に見えちゃうんだ」
 少しばかり寂し気に、彼女は言った。
「違うの?」
「ある側面においてそれは真実だけど、別の側面で見れば、ちょっと違うかもね」
 何やら意味深なことを言う。
「貴方みたいな人にも、色々あるんだ」
「心の壁を感じるなー。ボクのこと、嫌い?」
「嫌い。私とは真逆で、いつもたくさんの人に囲まれていそうな、貴方みたいな人間が、大嫌い」
 嫌いなものは嫌い。こんな人が私に話しかけるなんて、ただの偽善だ。良い人を演じたいだけの、ただの偽善者。こういう人を何人も見てきた。気紛れで話しかけてきて、そのくせ裏では悪口ばかり。私がそのことを知ってるだなんて微塵にも思わない、そんな人たちが大嫌い。
 彼女もきっと、同じ。ただ私を憐れんで、そんな自分に酔いしれたいだけの、嫌な人。
「遠慮の欠片もないね、君は」
 負の感情を遠慮なく吐き出した私に、それでも気分を害した様子は見せず、淡々と。
「君みたいに、嫌いなものを嫌いだー、って言える正確だったら、ボクもこんな選択肢を採らずに済んだのかもしれないね」
「君、って呼ぶの止めて。私は楓(かえで)。ほんと嫌い、クラスの連中みたいで」
「あはは、ごめんね。じゃあ、楓。これで良いかな?」
「……別に良いけど」
 自分で言っておきながらなんだけど、同じ年頃の人に名前を呼ばれるのって、凄く恥ずかしい。これじゃまるで……まるで、なんだろう。
「改めまして、ボクの名前は藺草(いぐさ)だよ、楓」
「変な名前」
「ごもっともだね」
 遠慮の欠片も無い私の物言いに、彼女、藺草は、うんうんと頷いているのが背中越しにも伝わってくる。なんだかこうして居ると、ちょっと仲の悪い友達みたい。そんな人居なかったから、よくわからないけど。
「そういえば、何で君…じゃなかった、楓と話したいかって問いに答えていなかったね」
「茶化したんだと思ったけど、覚えてたんだ」
「ごめんごめん。んー……ボクにも正直、よくわからないんだ」
「なにそれ」
「よくわからないけど、楓とは話してみたかった。……こう言うのは失礼かもしれないけど、ある人、のことを思い出しちゃってね」
「ほんと、なにそれ」
「その、ある人と君は、よく似てるんだ」
「何が?」
「んー……雰囲気?」
「嫌味?」
「そんなつもりじゃないんだよ。んー……難しいね」
 雰囲気?ある人?藺草が何を言ってるのか、ぜんぜんわからない。でも、なんだろう。……『ある人』と言葉にしたとき、今まで見せなかった陰りが籠められたような気がする。
「その、ある人は、自殺しちゃったんだ」
 一層陰りを強く、藺草は続けた。え、自殺……?藺草の言う『ある人』が?
「楓の言う通り。ボクは楓が嫌ってる人たちと同じ種類の人間だよ」
「自覚、あるんだ」
「うん。楓の言う通り、ボクは恵まれていた。容姿だけで勝手に人は寄ってくるし、自分で言うのもなんだけど、愛嬌もある」
「本当に恵まれてるんだね」
「何も知らなければ、その通り、ボクは恵まれたままで居られた。けれどそれは、何も知らないで居続けることになる。そんなこと、神様は許してくれなかったみたいだけど」
 「……何があったの?」
「この話は、君にだけは、話しておきたかったんだ。独り善がりの贖罪だとでも嘲笑ってくれても良いさ」
「聞くだけ聞いてあげる」
 最初に好奇心を見せたのは、私。でも、私とは真逆の人間だとわかったら幻滅してみたり、それなのに『贖罪』なんて大層な言葉を使う藺草の話を聞こうとしてる。
「ボクにはね、とても仲の良い、幼馴染が居たんだ」
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 そして、彼女の、藺草の贖罪が、始まる。
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 自分で言うのもなんだけど、ボクは容姿に恵まれ、幸か不幸かその立ち振る舞いには愛嬌があると言われ、男女問わず好かれるような人間だった。教室ではいつもたくさんの人に囲まれて、正直、嬉しかった。愛されているという実感が、ボクを特別な存在にしてくれるみたいで。
 それに対して、幼馴染の彼女、椿(つばき)は、ボクとは真逆のタイプだった。いつも教室の片隅で独り、本を読み、誰かと話している姿なんて殆んど見ない。だけどそれは、彼女のある側面に過ぎなくて、本当の彼女がどんな人間なのか、ボクはよく知っている。
 家が近所で、幼い頃からよく一緒に遊んだ。その頃から椿は本が大好きで、ボクにたくさんの物語を読み聞かせてくれた。ボクは本を読むとすぐ眠くなっちゃうんだけど、彼女が語ってくれるときだけは、その世界に夢中で。将来は作家になるんだ!って熱く語ってくれることもあった。ボクには到底できそうにもないことを成し遂げようとする椿の姿はとても眩しくて。
 それなのに、学校でのボクたちは、別々の世界に『区別』されてしまった。学校の外ではいつも一緒なボクたちが、学校の中では全く別の世界を歩むことになり、けれど大した問題じゃないとも思っていた。だって、学校の外に出れば、ボクたちはいつものように、同じ世界で過ごせるのだから。
 いつからだろう。クラスメイトが椿のことを、何故だか疎ましく思うようになったのは。それから、目立つようなイジメはなかったけれど、その分陰湿なイジメを、クラスメイトは繰り返すようになる。それを辞めさせたい、とは思った。けれどボクと『彼女』は別の世界を生きていて、何よりも周囲の人に変に思われるのが怖くて、結局何もしなかった。
 学校の外に出れば、ボクたちはいつものように、同じ世界に生きられた。学校ではクラスメイトに、学校の外では椿という大切な幼馴染に恵まれ。どちらかを選ぶことなく、ただ恵まれた世界に胡坐をかいて。
 椿がボクを避けるようになったのは、イジメが始まってそう長くない日。
 いつもの下校時間。いつものように彼女を誘おうとしたら、手を振り払われた。そのことがよく理解できず、呆けている間に椿は先に帰ってしまった。その日以来、学校の外でも、ボクたちが話すことはなくなってしまった。けれどそれは一時のことで、そのうち元通りになるだなんて。いつかまた、椿が物語を聞かせてくれると信じて。
 それからも、学校でのボクはいつも通りのクラスメイトに囲まれて、笑って、過ごしていた。クラスメイトが椿に対して行っていることには眉を顰めながら。それも、学校という名の『牢獄』を過ぎれば、失われる行為。ただそれだけのことだと、信じて。
 前触れはなかった。お昼休み、彼女が教室を出ていくのがわかった。椿は、学校の何処か、きっと誰も来ない場所で、昼食を済ませていると知っていて。だからボクは、クラスメイトと過ごした。
 それが椿を見る、最後の瞬間だなんて知りもせずに。
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「……最低だね、ボクは」
「最低よ、貴方は本当に」
「何を言われても仕方がないと思う。結局、ボクは恵まれていることに拘り続けた。何もかもに恵まれることなんて、あるはずがないとは知らないでね」
「それで、私と話してみたいと思ったの?」
「椿を追うつもりで、此処に来てみたら、偶然楓を見かけたんだ」
「そして、私もその椿って子と同じだと思った、ってこと?」
「そんなところかな。死ぬ、って決めたはずなのに、今もこうして楓に告白して、楓を助けてあげたいなんて思ってる。結局また、死ぬ勇気がないだけの、臆病者なんだ」
「助けてほしい、なんてこっちは思ってないから、余計なお世話よ」
「わかってるよ。ただの偽善さ。生きるために楓を理由にしようとするだけの、ただの臆病者」
 偽善者。藺草の言う通り、彼女のやろうとしていることはただの偽善。結局自分のため、生きる口実を作る行為。
「もし、助けて、って言ったら、貴方に何ができるの?」
「何もできないだろうね、きっと」
 わかっていたこと。たった一人の人間が何かを変えるなんて、到底無理な話。誰かを助けようだなんて、ただの傲慢だ。
 背中越しに伝わる肩が震えていることに気が付く。顔が見えないから、どんな表情をしているのかはわからないけど。
「だけど、せめて」
 藺草が言葉を紡ぐ。
「ボクみたいな人間が、無様に死んでいく様を見て、少しでも楓の気が楽になれば良いな、って思ったんだ」
「そんなことされたって」
 そんなことをされたって、ちっとも嬉しくない。
 そんなことじゃ、ちっとも助けにならない。
 そんな告白をされて、目の前で自殺されても。
 また、誰かが悲しむだけ。
 別に、藺草みたいな人間が何を考えているかなんて考えるまでもないし、そういう人間の行為にわざわざ傷つく道理もない。少なくとも私はそう思っている。それなのに、碌に面識もないはずの私を『助けたい』だなんて。助けたくて、目の前で自殺するなんて。そんなことをされたら、助けになるどころか、逆効果。
 それに。
「助けが欲しいのは、貴方の方じゃない」
「えっ……?」
 藺草一人が悪いわけじゃない。私は藺草のこと、何も知らないけど、そもそも悪いのは周りの人間。勝手に寄ってきて、自分たちに都合が悪くなれば迫害しようとする、そういう人間たちが居るから。そんな世界で、己を犠牲にしてでも誰かを助けるなんて、できっこない。二つの世界のどちらかを犠牲にし、選択する。そんな勇気が持てる人なんて、大人にだって多くはない。
 そして。
「藺草。貴方の笑顔は少なくとも、私が見てきた人間よりも遥かに、澄んでいるわ」
 決して取り返しのつかない犠牲。勇気が持てなかったことの代償。それでも。
「ただ、貴方が笑ってくれるだけで」
 笑ってくれるだけで。
「もしかしたら、誰かの助けになることだってあるかもしれない」
 誰かじゃない。それはきっと、私。初めて出会った、裏のない笑顔。貼り付けたような薄気味悪い笑みじゃない、雲一つない、澄んだ空のような、そんな笑顔。
 それが失われてしまうことを、惜しいと感じてしまう。だからこれは、私のエゴ。
「だから、生きて。その笑顔で、私を笑顔にさせて」
「……楓は、それだけで良いのかい?」
「良いのよ、それだけで」
「本当にボクは、勇気がないみたいだ。椿を追うって決めたはずなのに、楓の言葉に縋ろうとしている」
「良いじゃない、縋ったって。もし本当に誰かを助けたいと思っているなら、生きて」
―――
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―――
 『立ち入り禁止』 の張り紙を無視して、私はその扉を開いた。
 大して見るものもない景色を眺めながら、誰も居ないこの場所で昼食を食べる。教室に居ても居心地が悪いだけだし、他に良い場所もない。詰まらない景色でも、雲を眺めてその形から連想されるものを思い浮かべたり、地べたに這いつくばる人間とは違って悠々と空を飛ぶ鳥を眺めたり、それはそれで悪くない。
 給水タンクのある高所へ向かうために、弁当箱片手に梯子を上る。せっかく見るなら、俯瞰できる場所が良いに決まってる。いつもの場所に落ち着いた私は、弁当箱を開こうとして、『彼女』の存在に気が付く。
「待ってたよ、楓」
「相変わらず早いわね。クラスメイトが簡単に逃がしてくれるとは思わないのだけれども」
「昼食の誘いを断ったくらいじゃどうってことないさ」
「藺草がそれで良いなら良いけど」
 私のエゴに気が付かない、純粋で、何も知らない、たった一人の友人。
 再び世界を、犠牲を、選択しなければならない日が彼女に訪れようと。
 私は私のエゴのために、きっと彼女の傍を離れない。
 どんな形でも、藺草という存在を、私のために助けよう。
 決して、放してなんてあげない。何度でも、彼女に選択を迫ろう。
 椿という犠牲を利用して、私のためだけに、生かしてあげる。

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