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国公立医現役合格までの軌跡

国公立の発表直後に書いたメモを加筆修正したものです。
感情論多め。参考になるかはわかりません。

この記事(大学受験後に書いた文章)の続きです。

絶望
2020年2月中旬
私は、医学部受験で有名な某中高一貫校の高校受験に落ちた。
正確に言うと、補欠だった。
その補欠はギリギリ届かず、自由をウリにする公立高校に進学することとなった。

その頃、新型コロナが流行り始めた。
7月になるまでろくに登校できなかった。
悔しさで、毎日家で勉強してた。
登校が始まってすぐ、春休み課題であるスタディーサポートの自宅受験が返却された。
280人中、200位。
高校受験の時はずっと安全圏だった。
こんなはずじゃなかった。
信じられない成績だった。

堕ちる所まで堕ちた。
この時、私は人生のどん底だった。

高校1年
登校できるようになってすぐ、私は中学同様合唱部に入った。が、そこは私にとってブラックだった上、私の音楽の価値観と合わなかった。勉強との両立も無理だと思った。

当時の志望校は東京大学理科二類。
私は病気で苦しい思いをしてきたから、薬の研究をして病気の子供を救いたかった。
薬の研究ができるならどこでも良いわけではなかった。
高校受験の仇を取るために東大レベルの大学に合格したかった。
東大に受かれば落ちた高校の生徒と同等以上になれると思っていた。
中3の時に片思いしていた人が「俺は甲子園に出るから🐰は東大受かれよ、自慢するから」と言ってくれた。
高校生になったら好きじゃなくなったけれど、最後に本気で認めて欲しかった。
今考えれば無茶苦茶な志望理由もあったけど、
本気で東大理二で学びたかった。
私の高校から東大レベルに到達するのはせいぜい1人、多くても5人はいない。
こんなんじゃダメだって思った。
10月下旬、私は部活を退部した。
それから、私はほとんど遊ばず、大半の学校行事をサボり、学校が終わったら塾に行き閉校まで勉強、休日も朝から晩まで勉強する生活を続けた。時間にしたら休日は12~13時間くらい勉強した。

当たり前だが、闇雲に勉強して成績が上がるなんてことはなかった。
わかっていた。これが原因で高校受験に落ちたのだから。
実力としては、校内順位70位前後をうろちょろしていた。

母親にはバカにされた。
「頭よくなって なんて頼んでないw」
「そんなんで東大なんてw」など。
同じ高校の人には変な目で見られた。
心が休まることなんてほとんどなかった。
それでも部活の縁で仲良くしてくれた子はいて、その子と部活のない水曜日に一緒に帰ることが唯一の息抜きだった。

とはいえ私のメンタルは崩壊していく。
東大なんて無理だ、と思った。
志望校も下げてた。
そんな時、転機が訪れた。

生命工学との出会い
高校2年4月、本格的に探究活動が始まった。探究活動は私が高校で2番目に頑張ったことだった。(1番は勉強)生物学アプローチから医療応用ができないか考えた。
探究活動に取り組むうちに思ったのである。
薬のような化学物質に頼るのではなく、生物の生命機構を応用して病気を治すことができたら、薬の副作用もなくせないか、と。
そこで、大学を調べ直した。
カリキュラムや研究室に重点を置いて調べたところ、東京工業大学生命理工学院が自分に合っているのではないか、と考えた。
だがここで問題がある。
東工大は物理必須なのである。
元々化学と生物学に興味があり、この2つは高1のうちに高校全範囲を終わらせていた。(受験勉強戦略としては最悪である)
それでも私は東工大に行きたいと考えた。
絶対に合格したかったから、塾の校舎長に生物の参考書や問題集を全て預けた。

そこで、私は初めて戦略立てをした。
高2終了までに
・英検準1級の取得(英語能力の向上)
・数1A2B3のFocus Gold例題を完璧にする
・物理のリードα練習問題を全て完璧にする
・共テ同日総合7割以上
を目標として勉強に励んだ。

9月末。行事をサボり(丁度デルタ株が流行っていたので行事がなくても休んでいただろう)久しぶりに登校した。教室のがやがやとした雰囲気がダメだった。気持ち悪かった。
塾で勉強していてもふわふわ浮く感覚。
家で寝転がる時が唯一マシだった。
10月の英検本番にはほぼ消えていたが、また症状がでるのではないかという不安、そして症状によって本番までの10日ほど勉強が殆どできなかったことにより英検は落ちた。
母親に怒られた。
2級(合格点は余裕で取れていた)をすっとばして準1級を受けたあげく受験料を無駄にした。許さない。と
これ以前から親からの風当たりは強かった。
とはいえ流石に堪えた。
子供の体の心配や落ちた原因分析よりも先にお金や結果に目が行くなんて、と思った。

私みたいに勉強しなくても私よりいい成績の人は沢山いた。校内50位くらいだった。
誰からも認められなかった。
心が壊れていた。

そこから歯をくいしばって頑張った。
共テ同日、550/900
7割には大きく届かなかった。
2022の共テは破滅級に難しかったけれど、7割すら達成できない自分に嫌気が差した。

高校受験休みを終え、2月下旬。
学年末テストのために久々の登校。
このとき、再びふわふわ浮く感覚がした。
感覚に慣れたせいで何とかテストは受けれたが、もうメンタルが限界だった。
なんで私なの。

初めて私はめまい外来に行った。
助けてほしかった。
身体じゃなく心を。
この頃は本気で学校をやめたいと思っていた。
学校に行くことは時間の無駄だと思っていた。
自分の居場所が何処にもなかった。

精神科を紹介された。
適応障害では、と言われ薬を出された。

薬を飲み、身体は楽になった。
心はまだ辛かった。
親と何度も話し合った。
退学はするな、と言われた。
受験に合格することが最優先の私にとっては学校は必要のないものだった。
それでも私の通う高校は世間的に評判の良い学校なのは間違いなかった。
退学せず、辛い時は休むことになった。

適応障害の症状はこれ以降もたまに出たが以前よりは改善し、薬で抑えられた。
精神科に数回通院し、症状が落ち着いた頃、母親は圧力をかけて言った。
「もう大丈夫だよね?行かなくていいよね?お金もったいないし」
※主治医には通院をやめていいとは言われていない
※3/11に初診、同年5/20が最後の受診
母親は毒親なんだろうなって気づいた。
医学的なことはまだわからないので受診期間が適切かはわからないが、
予想が確信に変わってからは親の言うことを聞き流すことが上手くなり、メンタルも安定しやすくなった。

これと同じ時期に、私は疑問に思った。
好きになれない物理を何故学ぶのか。
工学は向いてないのではないか。
生物が使える東工大の総合型も考えた。

考えた答えは、「東工大で学ぶ意義はない」
東工大が一般入試で生物を使えるようにしていたらまた話は別だったかもしれない。
東工大は素敵な大学だという想いは変わらない。
けれど、東工大が物理を課す以上、数学と物理が苦手で嫌いな私は東工大に入れないと思ったし、生命工学でないと生物学的アプローチで研究できないわけではない。
わざわざ好きな生物を差し置いて物理を頑張ってまで東工大に行きたくなかった。
物理を捨て、生物をリスタートした。

別れと出会い
私が通っていた塾は高校受験の頃から通っていた個別指導。1つの校舎に小中高生がいる。独学でわからない所を解決したり、自習室で勉強するために利用していた。
その自習室の環境に耐えられなくなった。
以前から一部の小中学生が自習室内で喋っていてうるさいと思っていた。生物をリスタートした3月頃、それがエスカレートした。ゴミを投げあって遊んだ挙句私の足に当たったり、しゃべるどころか笑い出したり。
こんなのありえない、と思った。
自習室内は食事や雑談禁止、などのルールも機能していなかった。
録音を提出し、校舎長に改善をお願いした。
校舎長も頑張っていたとは思う。それでも食い止められなかった。
人生を賭けて勉強していることを笑われているようで、少数の努力する人が多数のそうでない人のせいで隅に追いやられることが悔しかった。塾が許せなかった。
当時、異動のため校舎長は引き継ぎを行っていた。旧校舎長(上記の校舎長は全て旧校舎長)は改善しようと頑張ってくれていた。しかし、新校舎長は女性だったこともあり中学生に舐められていて全く改善できていなかったし、改善への姿勢も見られなかった。

もう無理だ、って思った。
春休みのある日、私は置き勉していた物を全て持って塾を脱走した。
その後面談に行った母親によると、旧校舎長は泣いていたらしい。
結果が全てな大学受験。
どれだけ努力しても結果を出せない自分に嫌気が差すように、旧校舎長も嫌いになった。

メンタルは壊れていたが泣きながらひたすら新しい塾を探した。
私は河合塾マナビスに入塾を決めた。
決め手は校舎長やアドバイザーさんの人柄。
テキストや授業の良さ。家からの近さ。
自分の状態に応じて裁量が効くこと。
何よりも、受講ブースや自習スペースの環境だった。
友人から他塾の話も聞くが、私が通っていたマナビスの校舎は私が知る限り最も静かであると確信を持てる。
結果論だが、私の通っていた校舎では「(私の代で)7人に1人が旧帝大か国公立医に進学」という合格実績を叩き出した。コース分けのない塾としてはかなり良い実績ではないだろうか。周りのレベルの高さがかなりプラスに働いた。

高3の4月、私はマナビスで再スタートした。
自分の良くなかった勉強法も改めた。
マナビスの広瀬先生の授業により数学の苦手意識も消えた。実際、数学は全統記述模試で偏差値70を超えた。

医学部へ
第1回全統記述で偏差値62程度。
私は医学研究をするために医学部医学科に行きたいと思った。
私のやりたい医学研究は医学科の研究室に多い、と調べてわかったからだ。

医学部に行く成績に達するために自分の知見を広げようと思った。
河合塾の夏期講習に出向いたし、共テのために嫌いな国語も真面目にやるようになった。

河合塾の夏期講習でM先生に九大医学部生命科学科を勧められた。調べてみるも、面白い研究をしている。医学科目指さなくても自分の興味がある研究ができる、と思った。
これを両親に言うと「ダメだ」と言われた。
今まで私のことを否定も肯定もしなかった父親も否定したのである。
生命系の就職が悲惨だからである。
生物系を併願することも止められた。

こうして私は医学科志望となった。

私の成績は良くはない。
研究医コースがある国立医学部に絞ると受験できる大学はかなり減る。
ひとまず東京医科歯科大学を志望した(当然、無謀である)。
夏の面談で学校の担任に「群馬ならC判定出る」と言われたが、私は生化受験。
無理なのである。
ちなみにこの担任、とてもいい人である。
学校は嫌いだがこの先生は好きだった。

受験勉強を始めて2年、高3の第2回全統記述模試でやっと結果が出始めた。
遅すぎる才能開花だった。
国立理系偏差値67.6
医学部を射程圏内に入れることができた。

やるしかなかった。
勉強するうちに医学部医学科しか見えなくなった。医師免許を取得して臨床を学んでから研究をしたいと思った。
苦手な共テの勉強も頑張った。
父親が各大学医学部の情報を纏めてくれた。
私は、比較対象の大学よりもレベルは少し高めだが、過去問や配点の相性が良い大学を仮受験校に選んだ。

高3になってからは高校の理系選択の約140人中10位以内をキープしていたが、11月の駿ベネ共テ模試では717点、理系で2位を取った。嬉しかったけど、1位じゃなくて悔しかった。
もう少しで目標の8割に届く、少しだけ希望の光が見えた。

共テプレで出願予定の医学部のドッキング判定がB判定まで上がった。
あとはやるだけ。
担任やマナビスの先生、そして親。
誰もが認めてくれるようになった。

出陣
地獄の共テ。
数学コケたり国語外したらどうしよう。
7割切りも覚悟していた。
けど、会場も同じ高校の子の中で1番良い所を引き、しかも1人席だった。
何となく、自分は最強だと思った。

結果は、761点(得点調整後)
※マークミスをしていたので実際は759点

そして、リサーチ
仮出願校の判定は、A(河合)B(東進)C(駿台)
予備校によって割れてしまった。
私としてはD判定あたりから二次で巻き返す戦略だったのだが、予想以上によかった。
とはいえ割れすぎである。
仮出願校は二次比率が高かった。
共テの蓄積なんて無いに等しい。
急に二次の自信がなくなった。
私の中である考えが浮かぶ。
ボーダーが明らかに低い地方国立医学部なら共テの蓄積で逃げ切れないか。

担任や親、塾のアドバイザーさんetc.
全員に反対された。
仮出願校に出願せずに落ちたら後悔する。
二次に自信があるなら仮出願校の方が絶対いい。

仮出願校で真っ当に二次勝負をするか。
仮出願校よりも少し判定が良い徳島大学で得意な数学に賭けるか。(二次は英数のみ。英語が苦手なので数学で得点して逃げ切りたかった)
ずっと迷った。

私は仮出願校に出願した。
そして、当たり前かのように足切り予想倍率は超える。
とりあえず足切りは突破。

私大も強気に出願した。
私立医1つとMARCH以上の私立理系のみ。
全落ちしたら浪人、のつもりだったが
受験をしていくうちに、医学科落ちたら浪人
になったのは言うまでもない。

Finale
2月7日。私は東邦大学医学部の入試のために五反田TOCに来ていた。
2800人が狭い枠を勝ち取るために本気で挑みに来る。
手応えは最悪。緊張なんてしなかったけれど、ただ単に実力不足で自信がなかった。

3日後の私は慶應義塾大学を受験していた。昼休みに1次試験の発表を見た。
2次試験日は2/16希望だった。と下に目を移す。
○×△□(私の番号) があった。

二次までは提出書類や面接練習に明け暮れた。国公立にかける勉強時間が減り、精神的にもきつかった。
共テ利用で出願した大学(非医学部)の合格を確認できたことが唯一の精神安定剤だった。

2/16
例年通り意味不明な討論とMMIを終えた。
おそらく面接落ちはなさそう。
国立医に向けていい練習となった。

2日後の正午。河合塾マナビスの休憩スペースで結果を確認した。
○×△□ はなかった。

泣いた。
けど、悲しみなんて押し殺すしかなかった。
第一志望はここじゃない。

2/25 国立2次試験
朝一番にバスに並んだ。耳にイヤホンを突っ込んでお気に入りの音楽と共に快適にバス旅を送った。

2次試験、やりきった。
試験中に感情なんてなかった。ただただ目の前の1問を取りにいくだけ。受かっても落ちても後悔はない。
翌日の面接も難なく終えた。

2/27 私は予備校探しを始めた。
中期や後期に出願した薬学部に進学する気がなかった私の今年の受験は終わった。
勉強なんてできるメンタルじゃなかった。
予備校探しが私の中で1番安心することだったから、説明会にも出向いた。国公立の結果発表前に予備校の席を押さえたほどだ。
もし落ちてたら河合塾のハイパー医進にお世話になる予定だった。

3月某日 9:57
10時発表なのに、何故か結果が見れる。
覚悟を決めて、医学部医学科の結果を見る。
PDFで一気に全合格者の番号が出る。
私はすぐに×△□△を見つけた。

国公立大学医学部医学科 現役合格。
マナビスの校舎で初めて
学校でもn年(n>3)ぶりの快挙だった。
3年間頑張ってきてよかった。

後日談
私立医の補欠は繰り上がらなかった。
だからこそ、選んでくれた場所で、素敵な医師になるために6年間頑張ろうと思う。

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