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N型が悩みを減らすちょっとしたハック


今日は「N」の話をします。

16タイプの性格理論で、情報を知覚する方法が
「N(直観)型」か
「S(感覚)型」か、
の「N(直観)」のことです。

N型は、直接的な五感を通り越して、物事の背景や意味を読み取ろうとする…そんな風に説明されることが多いと思います。

目に見えているもの以外のことを認識する傾向が強いことからよく神秘視されますが、
一方で現実との乖離感や、理解されなさに悩む人も多い気がします。

「変わっている」と言われたり、
自分の考えがうまく現実に起こせなかったり、
目に見えている単純な事柄のみに価値を置かれる場で言いようのないモヤモヤを感じたり、
そのような環境しか与えられなければ有り余る想像力が行き場を無くして心身の不調につながったり…

情報源は不確かですが、N型は全体の3割ほどしかいないとも噂されています。

INFJの私も自分の「I」「N」「F」「J」の中では「N(直観)」という性質について一番深く考えてきたかもしれません。
…なぜなら、概念として一番わかりにくいから!笑

今回は、そんなNな性質を割と強く持っていると自覚している方向けに、
最近私が思考の中で実践している、悩みを減らすちょっとした裏技のようなもの…3つの「ハック」を共有したいと思います!

ただし私自身がINFJなので、出てくる例がINFJっぽい悩みであること、「N(直観)」の中でも自分の内側に向けられた心の動きによるものが多くなることはお許しください。

また、あくまで私が個人的に実践していることなので、「合う/合わない」はご自身で判断してください。


※ここからの話は、全くの私の考えですので既存の理論とは切り離して捉えていただけるとありがたいです。
また、「N型」「Nという心の動き」というとても抽象的な概念について話しているので、全ての文章において「全てのN型がこうというわけではない」「Nだからといって必ずこうなるわけではない」「S型がこうじゃないわけではない」が適用されます。




「想像」しなくていい


ハックの一つ目は、「想像しなくていい」です。

どういうことかを説明する前に、私が「N/S」という分類に対して少し疑問に思っていることを話させてください。

他の心の指向…「E/I」や「T/F」などに比べ、「N/S」というものにはある種のアンバランスさを個人的に感じてしまいます。

誤解を恐れずに簡潔に説明すると、
Sは「五感で感じたことをただ感じる」のに対し、Nは「五感で感じた後、そこから想像を膨らませる」ということをしている…つまりNの方が一つ多く仕事をしていると感じるからです。

なぜなのか、自分でもとても不思議です。でも、「N型が少数派である」という噂を聞いた時は、これと結びついて少し納得感がありました。

もちろん前提としてSもNも無意識に行われることなので、N型の人にそんな「仕事をしている」意識はないと思うのですが、
いち動物である我々人間が外部から情報を取り入れるときに必ず五感から入ることを考えると、全体像を捉えたり背景を掴んだりというのは二次的なもののようにどうしても考えられてしまいます。

(全体像や背景のようなものを把握する「第六感」なるものの存在が許されるなら、Sとの平等性に説明がつくと思いますが。)

…と長々と私の個人的な意見を連ねてしまいましたが、もしかしたらより専門的な知識を持つ方からすると笑止千万なズレた考察かもしれません。

しかしなぜ素人の私がここまで丁寧に個人的な見解を説明したかと言うと、今日ご紹介したいN型が悩みを減らす「ハック」に繋がるからです。

その一つが、「想像しなくていい」です。

ここまでの言葉で言ってしまうと、「仕事を放棄しましょう」ということにもなります。

…これ、単純化してしまって「N型は考えすぎだから考えるのをやめよう」みたいな変なアドバイスになっているケースがたまにあります。
個人的にはあまり効率的な助言ではないように思います。
ひどいと飛躍して「N型の考えは単なる妄想だ」「実用性が全くない」みたいになっていくこともあると思います。

でも、N型の人が心や指向をラクにするにあたっては、焦点を当てるポイントが違うかなと思います。

仮に二次的な知覚を優先しているとしても、そもそもN型にとっては、それが無意識の自然な心の動きです。

自然な動きなので通常は楽だと思うのですが、それが悩みや苦しみにつながってしまう場合があります。
もしかしたら…ですが、それは仕事の一つ少ない・多数派のS型さんより多いのかもしれません。

なのでN型さんにとっては、自分にそういう性質があるとまず自覚するのが重要だと思います。
自覚ができたら、あとは「悩みが出る場面で、余計な仕事を自分の肩から降ろしていく」ということがしやすくなるので。

だから「仕事を放棄しましょう」なんです。

例えば自分が苦しみすぎるくらいなら、相手の背景を想像してあげなくていいんです。
言葉を変えて言うなら、「察してあげなくていい」。
背景を知る必要があるのなら、直接質問してもいいのです。
わからないことは決して恥じゃないと思います。

「質問する」などコミュニケーションが生まれるようなことは、自分が一人で負っていた仕事を相手に一瞬渡すことにもなります。
そうすることで自分が軽くなることができます。

もしかしたら、こちらが想像しているほど事態は複雑でないかもしれません。
想像するのが楽しいならいいですが、苦しみに繋がってしまうのなら、そこから解放される可能性を掴みに行ってもいいんじゃないかと思います。


「分類」しなくていい


二つ目はこの「分類しなくていい」です。

どういうことか。

先にNは「二次的な知覚」である可能性を述べましたが、
一言で「現実を捉えていない」「現実から離れている」という説明では的を得ていないように思います。

Nについて調べると、「抽象化」「パターン認識」「全体像」などというワードが上がってきます。

つまり捉えた現実から、「そこから何がわかるか」を導き出す。
そして「これからどう生かしていけるか」などという可能性の方に焦点を当てて見ているわけですよね。

これは完全なる私の憶測に過ぎませんが、少数派でもN型が存在している理由の一つとして「人間の種としての生存戦略」が考えられます。

前述したようにN型は「仕事を一つ増やす」という負担を負ってでも、「現実をありのままに捉えておしまい」とするのではなく、これから起こりうるリスクを回避するため、種として繁栄するためにどの方向へ進んだらいいかという先々の可能性を見つけるために、わざわざ複雑な性質を得た…という可能性も考えられるわけです。

仮にそうだとしたときに、私たちの真の目的は「可能性を導き出すこと」。

「抽象化」「パターン認識」はその手段に過ぎないという見方もできます。

無論、何度も言うように私たちの無意識下で起こっていることなので、何が手段で何が目的かということは意識できないと思います。
理論で分けるとこうかな…というだけで。

だからこそ、この「抽象化」や「パターン認識」が自分を悩ませる場合もあるのかなと思います。

少し極端な例ですが、
「私、〇〇もできないんじゃ●●失格だ」
「××と▲▲が起こった…この形式見たことあるな…まさか死亡フラグ!?」
などと、よくよく考えてみれば抱える必要のない自責や不安に襲われることがありませんか。

事実は「私は〇〇ができない」「××と▲▲が起こった」
それだけのこと。(だから何?)
…で良いはずなのに、そこから何か「分類」「パターン化」しようとしてしまう。

これは私たちが負わされた(ある意味、です)目的のために先天的に備え付けられた「手段」としての知覚方法が、自身を追い詰めている状態と見ることもできると思います。

そうなったら、ここでも「仕事を放棄」してしまいましょう。

「分類しなくていい」んです。
…とはいえ、無意識に分類するところまでが私たちの知覚機能の作用なので、この言葉では使いづらいですね。
ちょっと複雑な言い方ですが、「分類」した結果が苦しみなら、その「分類」を疑ってみてもいい…と言った方が正しいかもしれません。

「分類を疑う」とは、自分の思考を疑うことでも、分類先をただ変更することでもありません。
「こっちの類じゃなくて、あっちの類に当てはめてもいいかも?それともそっちの類でもいいかもしれないし、こっちとそっちの両方ということでもいいかもしれない。まあ、どこにも分類しなくてもいいかもしれないけどね。そもそもこの分類方法って合ってるかな?この類の中でさらに細分化できるかも…」などと、一度振り分けたものを溶かしたり、バラバラにするということです。

そして究極にバラバラになった先に、物事はただの粒となります。
物事を、粒として捉えていいということにもなるんです。

「あなた」と「わたし」を「男」と「女」ではなくただ「あなた」と「わたし」で捉えていい。

過去、現在、未来を因果関係だけで捉えるのではなく、一瞬一瞬の出来事として捉えていい。

「わたし」は「わたし」。
「今」は「今」。
その粒に、他の粒との優劣や矛盾、因果など存在しません。
関係しないですから。

…最近思うんですが、究極の多様性って「それぞれを粒として捉え、そのままにしておくこと」だと思うんです。

もちろんそこに至るまでの過程に「分類」や分類のための名前がつくことは、社会的にも重要なことだと思います。

でも、そうやって生まれた「分類」を認めよう!では、ちょっとまだ疑問が残ります。

最終的に行き着くのは「粒を尊重する」ことだと思うんです。


「判断」しなくていい


3つ目は「判断しなくていい」です。

「判断」と聞くと、知識のある方は「判断機能…?」「判断を好むJ型…?」などと思うかもしれませんが、ここでは関係ありません。

性質関係なく、Nというものは「判断」…つまり「ジャッジ」に結びつきやすいと私は考えています。

なぜなら社会の中で「可能性を導き出す」ことの先に自然と求められるのは「判断」だからです。

もし「可能性を導き出して終わり」なら、私たちはこんな風に悩まなくても済んでいると思います。

適当に楽しく空想して、おしまい。…そういう楽しみ方もすることも時にはありますが、現実世界に身体を置く私たちは当然のことながらそれだけでは生きていけないわけです。

中にはほとんど空想の世界で生きているが、なんとか現実世界で生きるために、「導き出した可能性からいつも何かしらのジャッジを下さなければならない」という観念に縛られてきた人もいるかもしれません。

先程の「分類しなくていい」からそのまま繋がるのですが、
「私、〇〇もできないんじゃ●●失格だ」
「××と▲▲が起こったからもうおしまいだ」
そうジャッジを下す必要はないんです。

「私は〇〇ができない」らしい。
そうなんだね〜。
おしまい🌟

それでOK。

別にそれ以上、なにも対策を打とうとしなくたって、放置していたって、堂々とした顔をして、好きなものを買って、おいしいものを食べて、ぬくぬくと生きていくことは普通に人間として許される、
ということは、覚えておいて損はないと思います。


最後に:N型のままでいい


ここまででN型が悩みを減らすちょっとした「ハック」として、3つのことをお伝えしたので以下にまとめてみます。

「想像」しなくていい
→相手の背景を察してあげたりしなくてもいい。

「分類」しなくていい
→見えてきた分類を一旦溶かし、粒として捉えていい

「判断」しなくていい
→ジャッジしなくていい。そのままにしておいていい。


あくまで、N型の良さを減らす形ではなく、「苦しくなるくらいならそうすると良いかもしれないよ」ということです。

ここまでで、もしかしたら「N型はS型を見習うべきなのか…?」と思った方もいるかもしれません。

…しかし、そんなことは一言も言っていません🤗

ここでも同じこと。
「N」のことだからって、「N↔︎S」という分類へ落とし込み、「反対側から学ぶ」という「パターン」を自分に当てはめなくてもいいのです。

「N」の自分だけを見つめたっていい。
もちろん、S型から学んだっていい。
でも、S型を目指す必要はない。

私たちは、シンプルにN型のままでいいんです。

N型として、のびのび生きて良い。

自分の中にある想像性を許可していい。
いちアイデア、空想あることを伝えた上で、堂々と発信していい。
自分が感じた可能性を、信じていい。

悩むことも多いかもしれないけれど、こういうちょっとした裏技を使いながら、賢く楽しくN型人生を楽しみましょ🌻


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

よかったら、記事をお読みになって考えたこと、ご自身のあるある等コメントで教えていただけるととても嬉しいです!


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