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繊細は、意思が弱いということではない


私は私になりたいと密かに切実な思いを持って思って生きてきた。けど本当は自分の希望なんてどこにもないんじゃないかと思うことがよくある。気を抜くとすぐに自分の希望は薄れてどこかへ消え、人の希望にとって変わる。周りの人がどうしたいかで自分のしたいことを決めてしまう。

特に日々それなりに忙しくしていると、そうなってしまう。

「あんたはどうしたいの?」なんて突然真っ向から問われるとドキッとして、責められている気がして、何も言えなくなってしまう。その度に、「自分に何かをやりたいという強い気持ちなんて無いんだ」「これをやりたいんだと胸を張ってはいけないんだ」と思ってしまう。

だけど、こう言って自分を慰めもする。
”そりゃそうだ、気を抜くとすぐに人を優先するということは、そっちの方が自分にとって心地のいいことなんだよ。私にとっての幸せは、みんなの幸せだから。私ってそういう性質でしょ。自分の希望なんて、持ててなくても大丈夫だよ。既に幸せなことに目を向けようね”
最後まで言ったところで、なぜかとても苦しくなる。何も間違っていないのに、なぜだか。




絵が、描けなくなった。

具体的に言うと、本来自分の世界観を表現するという目的で始めたイラスト制作だったが、今年に入ってから仕事のために行う割合が少しずつ増え、気づけばほぼ100%仕事になっていた。

暇な時間がまったく無いわけではない。それにもかかわらず、いざ自分の制作を行おうと思うと、なぜだか手が動かない。

だから代わりに絵の基礎練習に充てた。お金を払いデッサンの講師の元で学ぶようになった。とりあえず手を動かせば、このどうしようも無い気持ちは紛らわせる。どうしようもない時間を悶々と過ごすよりは、ある程度時間が経った時にある程度のところまで辿り着けている方がいい。

こうは言っても、別に今が絶望的な状況であるわけではない。むしろ、こんなに仕事の依頼があるだなんて想像もしていなかったことで、本当にありがたいことだ。絵を始めてたった1年の人間がイラスト制作だけで食ってけていてるなんて、それが自分だなんて、信じられない。運がよかった。私がやった事といえば、ただ始めてそのまま続けたというだけの事だ。たまたま私を利用してくれたお客さん達もすごく良かったおかげで、ここまで来れたんだと思う。これに関しては、何をやったと説明する必要もなく本当に運としか言いようがない。

だけど仕事をする日々はやはり疲れる。「追われる」という程仕事があるわけではないが、人の要望に応え続けるという行為がどうしても私を疲れさせる。でもその中に小さな幸せやありがたいことも沢山あるのだから、感謝しなきゃ。自分の特技も上手く発揮できてる。「あなたのようなクリエイターになりたい」なんて言われたりもする。誰から見てもこの状態は不幸なんかじゃない。私は幸せなんだ。幸せだと思わなきゃ。

「思わなきゃ」と言ってる時点で思っていないのは薄々気づいている。気づきながら、さらに ”自分の希望なんて持ててなくても大丈夫だよ。みんなの幸せのために働こう” なんて追い打ちをかけてしまう。私は何をやってるんだろう。




本当に自分というものをなくして世界に溶け込んで平和を願うことが気持ちいいなら、こんなことでは悩まない。私が苦しいのは、人生の主要なところでいびつにはみ出した”自分”というものに幾度も出会ってきてしまったからだ。

時々、「私はこうしたいのに」と、とてつもなく強く反発したい気持ちが湧く時があった。例えばそれは日々のなすべきことに忙殺されそうになった時。巨大な圧力を前にした時。それから死を意識した時。

私は日々、私があまりないと思って生きていたのに、上記のような時、どうしても「ある」と気付かされてきた。

その時出会う私はいつも、子供みたいに泣いて怒っている。「よくも蔑ろにしてくれたな!」と言っている。そんなに怒るなら普段から顔を出してくれればいいのに、それはしないみたいだ。環境に用意ができていないと、出てこないみたいだ。



逆に言えば、環境に用意ができてさえいれば、ちゃんと出てくる。私の希望はまた、「なすべきことが何もない」ときにもきちんと表れたからだ。

それはちょうど1年前。退職して「何もしない」をする時間をとった時、自然と絵を描き始めた。それまで希望を抱くことすらできていなかった「イラストレーターになる。表現活動をする。」という目標に向かって歩み始めた。こういう時間をとれば、「なんだ、自分にはちゃんとやりたいことがあったんだ」と気づくことができる。

だから切羽詰まった時に感情的になって出てきた子供の私は、緊急事態の時にだけ現れる幻覚なんかではなく、私の潜在意識の中にある希望だったんだとわかった。




ここからが、今回いちばん伝えたいことになる。

私たちの希望や想いは、とても繊細だ。

それが現れてくるのは、本当に安心できる環境の中で、自分自身もリラックスしている必要がある。簡単には顔を出さない。そういう意味で、繊細だ。

いきなり残酷で極端なことを言うけれど、この世界の「普通」は、そんな私たちの希望や思いをいとも簡単に押し流すようにできていると思う。自分自身でさえ、そんなもの無いかのように思えてしまうくらいに。

それがあったと気づくのは、せいぜい死ぬ前くらいだ。死ぬ前になってやっと「ああ、やっておけば良かった…」と思うことになる。(そんなのやだ。めっちゃやだ。)

繊細というのは、イコール意思が弱いということではない。だから「日々の忙しさや周りの反対を押し切ってでもやらないなら、本当にやりたいことでは無い」などと言われるのは筋違いだ。鈍感な世界において蔑ろにされるその繊細さは、本当はこんな世界とは別次元に逃がしてでも、大切に守られるべきものだと、私は思う。

世の中はお金を稼がないと生きていけないようにできているし、そのわりにはこっちのレールに乗っかりましょう、ああしておきましょうこうしておきましょう、と私たちを拘束しようとする。そんなのに乗っかっていたら、私たちの繊細な希望は押しつぶされてしまうよ。

こんなに大切な私たちの思いを、つぶさないでよ。

でもそう叫んでいても何も起こらない。だから私たちは日々の中で知恵を持って工夫する必要がある。せめて、何もしなくていいと思える、安心できる環境を一時期だけでもつくるとか。

お金。時間。人間関係。常識。気候。光。日々たくさんの人たちの声が聞こえて、その度に脳が反応させられて沢山のことを考える。私たちは何もしなくても既に追われている。だから、せめて一時的にでも逃げられる場所を作る必要がある。




そう言うならば、私も今すぐにでもこの仕事を手放して、「何もしない」をしたらいいんじゃないかと思われるかもしれない。けど現実的なことを言うと、私は今お金がめちゃくちゃ欲しい。
ので、いきなり今の仕事を手放すことなくまだもう少し頑張り続けると思う。

だからこそこの考えを書き留めておきたかった。ここは繊細さが生き延びられる逃げ場だから。なんだかわかんないうちに、なくなっちゃわないように、書き留めておくことにした。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

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