時代の後ろに隠れてしまったもの
次の予定までまだ時間があった。
駅前の文房具屋さんにふらっと入ると、入り口のところに春らしいデザインのカレンダーやノートなどが並んだブースが設けられていた。
その中で一際光って見えたのは、満開の桜道が描かれたレターセットだった。その木々に沿って流れる小川と、奥の方には山々が見える。どこかにありそうで幾度の春を迎えても見られなかった風景が、繊細な線と淡い色づかいによって現れた。幾らかの桜の花びらが宙を舞っている。
この便箋には柔らかい春の風が吹いていた。
誰かに手紙を書きたい、と思った。
中学生くらいまではよく手紙を書いていた気がするけれど、いつからかほとんどやらなくなった。高校生くらいからみんながスマホを持つようになって、メッセージのやり取りが手軽になった分、それを選ぶ機会が無くなった、といえばそうなのかもしれない。
けれど、20代半ばになって、あの頃は今は無き若さがあったのだとわかる。
新しいものが正義だと思っていた時期が確かにあった。周りから遅れを取るまいと流行りばかりを追って、時代の後ろに隠れてしまったものを見ようとしなかった。
音楽も、映画も、本もーーー手紙もそうだ。
それに、元々真っ直ぐに気持ちを伝えることが苦手な方だ。たとえ手紙であっても、相手に渡す瞬間が小っ恥ずかしくて、相手にどう思われるか不安で、結局いつもできないでいた。
そんなわたしとは真逆で、母はよく手紙をくれる人だった。誕生日や新生活の節目。何の前触れもなく、ある日ポストに入っていた。
不動産やデリバリーのチラシの中から見つけた時、わたしの日常がわあっと晴れる。所々に浮かんでいた雲が一斉にどこかへ行ってしまう。母の手紙にはそういう力があった。
丸みを帯びた愛らしいフォントで綴られた言葉が、ふわふわのバスタオルみたいにわたしをくるんでくれることを知っていた。
離れて暮らしていても、自分をちゃんと見てくれる人がいる。こうしてわざわざ手紙にしたためて、郵便局で切手を買って。そのひと手間ふた手間がどれだけ嬉しいことか。どれだけ簡単ではないことか。
今ならそれがよくわかるのだ。
桜が満開に咲いたレターセットを持って、レジに並んだ。
便箋を買うなんていつぶりだろうか。
まずは母宛てに。新社会人になった弟へもいいかもしれない。そういえば、もうすぐ数年ぶりに日本にやって来る友だちがいる。彼女の国の言葉で書いてみようか。
受け取れないくらい十分もらったのだ。
だから、今度はわたしが。
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