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夢をあきらめないで

 朝。紛れもなく朝だった。二日酔いで頭痛と吐き気がした。おれはコーヒーメーカーでコーヒーをつくって、アスピリンを何錠か噛み砕いた。


 ヘッドホンをつけてブラームスの弦楽四重奏を聴いていた。煙草を吸ったが苦くてすぐに消した。もうすぐ失業保険が切れる。そろそろ仕事を探さねば。しかしそうする気には一向になれなかった。コーヒーを飲み干すと、ホワイトホースの水割りをつくった。

 美しい旋律に酔っているのか、安酒に酔っているのかわからなかった。どうであれ、気分はよかった。いまなら・・・・・・・とパソコンに向かう。真っ白い画面。くそっと舌打ちをする。水割りを飲み干し、またつくる。


 いつの間にか寝ていたようだった。頭痛と吐き気はさっきよりひどい。おまけに鬱まできていやがる。時計を見ると午後三時すぎだった。朝からなにも食べていないが、まるで食べる気にはなれなかった。アスピリンといつもの精神安定剤を一緒に飲んだ。これでなにが変わる? いや、なにも。薬を飲んでかろうじて人間だ。そんなおれに仕事なんてあるはずがない。

 念入りに歯磨きをして、髭を剃り、身支度を整えてクリニックへ行った。予約の時間は三時半だった。別にいつもとかわらない。ただ薬をもらいに行くだけだ。

 診察は五分で済んだ。薬を取りに行って、帰ってくると、また酒を飲んだ。しかし、今度は身体が受け付けず、便所で吐いた。ゲロを流しているのを見ていると、おれも流されてどこかへ行きたくなった。いや、流されて、流されて、このザマなんだ。

 前の会社は訪問販売の営業だった。細々と契約を取ってきていたので「アベレージヒッター」と呼ばれていた。しかし、8年目に中間管理職を任され、精神的な病気が悪化して、休職した。戻ろうと思ったが、怖くてダメだった。そのまま退職して、いまに至る。病気になったのは高校生のころで、社会人になるころには寛解していたので、もう大丈夫だとタカをくくっていた。最初は朝起きられなかった。それでも這うように出社していた。そのうち仕事中に眠くなり、営業車で仮眠を取るようにした。成績は落ちていき、それがまたプレッシャーになった。毎食後に飲む精神安定剤を、インターホンを押す前に噛み砕いていた。

 退職してからは外へは出られなかった。近所のスーパーと図書館にしか行かなかった。朝起きて、シャワーを浴びて、図書館で時間を潰し、夕方になるとスーパーで買い物をして帰ってくる。・・・・・・・そんな生活も終わらせなければならない。

 履歴書をパソコンで打ち込んでハローワークへ出す。仕事は人と関わらないものならなんでもよかった。

 結果は、不採用、不採用、不採用、不採用・・・・・・・。

 すべてを振り払って、ウイスキーの水割りを飲み、真っ白なパソコンの画面を見つめる。

 と、インターホンが鳴った。アイだった。彼女は専門学校を出て、美容室で働き、いまでは人気のスタイリストになっている。それまでの苦労を身近で見てきただけに、いまの自分がいっそ消えてしまえばいいとさえ思った。

「まーた飲んでるのー? あ、でも意外と片付いてるね。ここ座るよ」

おれはアイにも水割りをつくった。乾杯をして飲んだ。

「進んでないの?」

アイはパソコンを見ていった。おれは煙草を吸いながら頷いた。

「笑っちゃうよな。30過ぎてまだ諦められないなんてさ。周りは家族もいるし、仕事で成功してる奴もいる。おれは・・・・・・・ただ飲んだくれてるだけだ。アイはすごいよな。スタイリストだもんな。小学生のころから言ってたもんな。すげえよ。すげえんだよ・・・・・・・」

「あんただって、小学生のころから『作家になる』って言ってたじゃない。笑わないよ、わたしは。家族がなんだっての? 仕事がなんだっての? いま、あんたは真っ白の画面の前にいる。それが全てじゃない?」

 カタン、と音がした。郵便だ。玄関まで拾いに行き、封を開けると、いくつか履歴書を送ったうちの会社の採用通知だった。

「やったじゃん。金がなけりゃ夢も追えないもんね。今日は祝杯だね!」




 初出社の前日。緊張でまったく眠れない。いつも飲んでる睡眠薬を多めに飲んだら、逆にハイになってしまい、収集がつかなくなった。ベートーヴェンの弦楽五重奏を聴いていても落ち着かない。しかたなく、マーラーの交響曲を流した。余計にダメだった。

 時刻は午前三時。六時に起きなければならない。万が一眠ってしまってもいいように、濃いめのコーヒーを飲んで横になった。


 仕事は倉庫の中で学生の派遣を使ってイベントで使った板を掃除してもらったり、部品を数えるのを手伝ってもらったり、といった仕事だった。

 初日はハイが続いていたからよかったが、だんだんと仕事に面白みが無いことに気づき、パソコンの画面は真っ白で、睡眠薬を1シート飲んでから酒を飲むようになった。それで聴くチェンバーは最高だった。

 仕事の日の朝、おれは睡眠薬のシートを取って、飲んだ。それからジム・ビームの小瓶を携えて出社した。倉庫に着くころには小瓶は空になっていた。そんな日が何日も続いた。

 最近、どうも怪しい、クスリでもやってるんじゃないか、といった噂が立ち始めた。このままではマズい。でもこうしないと仕事に行けない。

「鍵かけないと不用心だよー」

アイだった。アイ、とおれは呟いた。

「おれはもうダメだ。社会人としても人間としても。小説だって、ハッ、書けやしねえしさ!」

「ねえ、呂律回ってないよ? そんなに飲んでないよね?」

と、アイはテーブルに散らばっている睡眠薬のシートを手に取った。

「あんた、これ飲んで仕事してるの?」

「じゃなきゃやってらんねえよ。おれなんて、夢に縋るだけの、夢を言い訳に生きてきただけのただのクズなんだよ!」

左頬に衝撃が走った。すぐにアイがひっぱたいたのだとわかった。

「あんた、借金して自費出版したこと、もう忘れたの? それだけじゃない。小学生のとき、わたしがスタイリストになる、って言ったら、『おれは作家になる!』って張り合ってきたじゃない」

アイはそこでため息をひとつついた。

「専門のカリキュラムがキツくても、アシスタントの業務がキャパオーバーでも、がんばってこれたのは、あんたがいたからだよ。笑われても、馬鹿にされても、黙々とパソコンに向かうあんたを思ってがんばってきたんだよ。だってそうでしょう? 書き終えたところで評価されるなんてわからない。一瞬でゴミになることのほうが多い。それなのに、あんたは書く。書き続ける。カッコいいよ。ずうっとわたしのライバルだよ」

おれはあぐらをかいて俯いていた。「・・・・・・・けねえんだよ」なに?とアイが訊き返す。

「書けねえんだよ」

「小説のことはわからないけどさ、あんたのことだから、背伸びしすぎなんじゃない? もっと自分の等身大でいいんじゃないかな。それで、書きながらいろんな本を読んでいけば、いつかきっと、いや、絶対に・・・・・・・あんたなら作家になれる・・・・・・・だから・・・・・・・」

アイはその場に崩れ落ちた。

「夢をあきらめないで」

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