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最果タヒ『不死身のつもりの流れ星』を読む。

2月1日発売。最果タヒさんの詩集。
タイトルからして抜群に素敵です。宇宙のチリが衝突して気化して光を放つ瞬間について、わたしはどうしても「死」を連想してしまう。だけど不死身のつもりなんです。彼らは。大気圏に突入する瞬間まで。
なんだか、その落ちていくときのチリ=流れ星の気持ちに想いを馳せていると、非常に胸が抉られます。なにも知らない強さへの憧れなのかもしれない。知ることはよりどころにもなるけれど、ひとを臆病にさせるから。

最果さんの詩集やエッセイは何冊か読んでいる。個展「われわれはこの距離を守るべく生まれた、夜のために在る6等星なのです」も観に行った。そのたび、このひとの瞳に映っているこの世界は、どのようなものなのだろうと考える。瞬間を、あるいは世界をこのように鮮烈に切りとる最果さんの眼差しは、詩というフィルターをとおしてもわたしと完全にはまじわらない。
たとえば悲しみ、孤独、命(終わりがあることを経験を持って感じるそれではなく、今ここ、この瞬間に存在している自分について)。過ぎてきた月日は、それらに対する感性を鈍くさせてしまう。見て見ないふりをしてないもののように扱ったり、向き合う前に忙しない日常の中にいつのまにか埋没していったりもするし、いつか過ぎ去ることを知っているからいちいち傷ついてみせる暇もないし、純度の高いそれと出会うことはもう決してないと思っている。逆に言えば、だからこそわたしも図々しくもいまだに生きていられるのだ。
それを知っていたとしても、この先鋭的な表現ができるのだから最果さんは詩を生業としているのである、と言ったらそのとおりではある。それでも、読むたびに自分の少女時代と何度も何度も出会うような感覚に陥るのにもかかわらず、宙に漂うようなそれの核心に触れるまえに手からこぼれていくようなもどかしさをずっと覚えていた。抽象的な言葉群に強烈に惹かれてしまうのに、その抽象を纏う、あるいはそこから放たれる、繊細な空気のようなものを空気感そのものとして受け取ることのできる鋭敏な感度をもう失ったのだと思っていた。少女時代に最果タヒが存在していたら、きっとわたしの神様だったであろう。それもわかっていて、なおかつ傷は傷としていまだに消えずにここにあるから、わたしはこのひとの作品を何度も読んでしまうにちがいない、と考えていた。

しかし、もどかしさが一部消失していることに気がついた。正確に言えば去年、前作「さっきまでは薔薇だったぼく」からそれはあった。
この正体は、綴られる詩の「きみ」「あなた」がわたしのなかで輪郭を持ったからだ。「きみ」がリアリティを持って顕現したとき、とたんに言葉の群れは濁流となって胸を圧し潰し、肉体を切り刻みながらわたしのなかに落下した。他者、それもとくべつな、個としての他者、の顔がはっきりしたことによって、他者によってもたらされる傷と根源的な孤独が極限まで掘り起こされたような気がした。こういうことは映像作品や音楽作品で体験することは往々にしてある、にしても、今回ばかりは強烈な体験だった。
むちゃくちゃ痛かった。べつに読み方なんていろいろあって、たとえば推しの存在や推しCPを思い浮かべて「エモ…」とかでもいいわけなのに、リアルになるとエモーショナルが迸るどころか血しぶきが飛び散って倒れてしまいそう。いやいっそもう殺してくれよ…
ほんとうはこの1年半、内側にそういうものを飼っていることに気がついていたのに、やっぱりわたしは見ないふりをしていた。嵐のような激しさにすべてを攫われてしまいながら、いつか凪が訪れるのをこころのどこかで待っていて(知っていて)、だけど、おそらく「さみしさ」が通底している最果さんの詩たちは、ページをめくってもめくっても襲い掛かってくるから、結局のところ引きずり出されるほかなかったのです。
すでに死んだと思い込んでいた心の一部、もしくは感受性のようなものが、甦ることがあるのだと知ったのは深い体験でもある。もちろん少女時代とおなじとは言わない。でも、ぼやけていたフォーカスがここまで鮮明になり、からだを食い尽くさんばかりになるほどのものが、今、わたしのなかにあったことにすこし驚いている。っていうか、本質的なところってなにも変わっていないのかもしれない。おとなになれとか、そういうの、本能的な感情を前にするともうはだかになってしまって、どうしてこんなことになったのか、呆然とするばかりだった。
そんなことを考えながら読み終えたら、あとがきに最果さんが「きみ」という言葉がもたらすさみしさについて、そして他者がいなければ人間はこんなに悲しくないのではないか、ということをはじめに書いていた。
「きみ」ということばに相対するのは「わたし」であり「きみ」と「わたし」がべつべつであるかぎり、どこまでいっても溶け合えるはずもなく、そういえばむかしから、そのどうしようもなさがあまりにさみしく、傷ついていたことを、だけどそれを隠していたことを思い出した。そういう感情を抱いて「きみ」と呼べるひとのことを想うと揺れて戸惑って寄る辺なくなるから、わたしは恋が苦手だった。というか、ひとつそれとはべつに大きな理由があって、しばらく恋という感情とか性という本能とかを喪失していて、そのあいだ思いのほか人生が安定していたので、ああ、わたしは恋が苦手だったのだと気がついて楽になったはずだった。
それなのに、よりによってことばも文化も通じそうにないまぼろしみたいな惑星にものすごい引力で墜落し 、いまだに焼け焦げたまま死ぬこともできないわたしとこの本を結んだ2023年のことを、一生忘れないだろうと思う(でも人間を人間たらしめるかけらをひとつとりもどしたような気もしている)。


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