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「あり方」が育まれるということ

気づけばコーチングと出会って7年目。

探究の熱は冷めることなく、自身の内側と向き合い、クライアントとセッションをしながら、コーチングスクールでリード(講師)をさせていただく豊かな日々を送っています。
その中で常に大切にしている「あり方」、つまりコーチがどんな器でそこに座るかという問いは、これまでの道のりを振り返ると大きな変容がありました。

今回のnoteでは、コーチングとの出会いから「あり方」の大切さに気づいてゆく旅路と内側の変化を綴ります。

コーチングとの出会い

アルバイト先のファストフード店でマネージャーとして働いていた大学時代。ティーチングに限界を感じ、別の方法を模索したどり着いた「コーチング」。「これだ」と確信したあの瞬間から、私のコーチングの探究がはじまりました。

それまで店舗でトレーニングをしながら「人は一人ひとりが唯一無二だからこそ、感じ方や捉え方、その活かし方は異なるはずのに、一定の基準や誰かのメガネで見ているものをそのままデリバリーすること」に違和感をおぼえていた私は、コーチングの「自身のリソースに自ら気づき、発揮する」コミュニケーションと出会ってパラダイムシフトが起きたのです。

それからすぐに書店へ行き、手当たり次第コーチングの書籍に目を通しました。その中でも図解による解説がわかりやすい一冊を教科書のように読み込み、店舗で実践する日々が始まります。すると、みるみるスタッフが変わっていくのを目の当たりにし、コーチングの力に魅せられていきました。

半年後には、店舗スタッフがオペレーションを競う国際大会でアジアチャンピオンになるという目標を達成。トレーニングにコーチングを取り入れた経験を文字に起こし、効果を統計で示し、大学の卒業論文としてまとめました。

実は書籍を元に独学でコーチングを実践していたこの頃は、いまの私が大切にしているコーチングマインドの形やあり方とは大きく違ったものでした。

当時の私は、スタッフがアジアチャンピオンになるというゴールに向けて、マネージャーとして根性論ではなく構造的にアプローチしたかった。それも私が知識を教えるだけでなく、本人がもつリソースを発揮できるようにしたかった。その「How」が知りたくてたまらなかった私には、目標達成型でありフレームワークを用いたコーチングのスタイルが「まさにこれを探していた」とハマる感覚があったのです。

後述する出会いにより信じたいもの、それに伴うアプローチが変化した私ですが、振り返ると必要な過程だったと思います。

コーチングから離れ、再び出会う

大学を卒業すると、私は悩んだ末にアルバイト先の外資系企業に就職し、人材開発の仕事をはじめます。
学生時代に熱中したコーチングは、目標の達成と卒業論文としてのまとめを経て私の中で一区切りがつき、社会人生活のはじまりとともに頭から離れていきました。

就職して1年ほど経った頃のこと。
コーチングの存在をすっかり忘れて仕事に熱中していたある日、Twitterをきっかけに知り合った他社の人事の方とご飯に行く機会がありました。人材育成の文脈の中で、「コーチングとか興味ないの?」と一言。私はすっかり忘れていたそのワードを聞いた瞬間、心が動き興奮しました。学生時代の経験を熱弁すると、その方は「通っているコーチングスクールでちょうど募集がはじまるから、もしよかったら説明会にこない?」と誘ってくださったのです。

心が動くままに説明会へ参加すると、あらためてコーチングの魅力を感じ「これはご縁だな、いこう」と気づけば申し込んでいました。会社で活かすといった考えもなく、新卒2年目になったばかりで金銭的な余裕がないにも関わらず。不思議と一度離れたコーチングから呼ばれるように近づいていった感覚です。
いま思うと、その頃無意識にあったビジョンのカケラが声をあげてくれたように感じます。

再会はショックから

スクールへ行くと、はじまったのは学生時代に独学していた頃には意識していなかった言葉やポイントが飛び交う講義。コーチングに代表する「傾聴」や「問い」を、初めて体系的に学ぶ瞬間でした。
それでも成功体験があった私は「すでに経験しているから大丈夫」と、自信満々でコースに参加しました。当時内側にあったのは、学びの姿勢よりも自分ができるかを確かめることが優位にあったかもしれません。

ところがいざ実践に移ると、全然できない。
傾聴であれば、相手の話を聴いていても解決策を見出す関わりになり、気づけば自分が話をしていました。私は大きなショックを受けました。同時に、いろいろな感情が渦巻いていました。
できない自分への苛立ちと嫌悪感。コーチングに突き動かされてここにきたはずなのに、いままでやっていたのはコーチングではなかったのか、だとすればなぜいまここにいるのだろうか。自分にできるようになるんだろうか。暗い感情を抱いたコーチングとの再会でした。

それでも一つ、引かれることがありました。それは、講師の方の受講生との関わりです。
使う言葉や表現、聴き方や捉え方、そして佇まい……うまく言語化できない抽象的な感覚ですが、これまで感じたことのない不思議な対話の質感に「ここには何かがある、それが知りたい」と好奇心が溢れていました。

そんなことを感じながら、数回目のクラスで扱われた「最短・最速・解決思考を手放す」という言葉に、心が大きく動きました。
鮮明に記憶に残るその言葉は、学生時代にコーチングを最短最速で目標にたどり着くためのフレームワークだと認識してきた私にとって理解ができません。ただ、確実に私の心を揺さぶったのです。

それらを手放した先に、どんな景色が見えるのか。そんな問いを持ちながら、クラスの中でたしかに蓋をしていた大切にしたいこと、信じたいものに触れていく感覚に気づいてゆきました。そして、その感覚が好きだということにも。

「あり方」への気づき

コーチは「あり方」が大切であると実感したのは、実践のプロセスの中でした。

有償クライアントとのセッション。事前に作った問いリストをPCの裏に置き、いざはじまるとクラスメンバーと練習していたときのようにはいきません。
問いを探す間ができ、すべての流れがリストで成り立つはずもなく溢れ出る冷や汗。いつでも画面の退室ボタンを押せるとまで考えてしまうほど、「怖い」という感情に覆い尽くされていました。
「もっと目の前のクライアントと対話がしたい、心が躍るようにダンスがしたい」と振り返りをしていたとき、頭をハンマーで打たれるように「コーチングはスキルがすべてではない、どんなあり方でこの場に座るか」だと気づいたのです。

それまでコーチングをHowやフレームワークとして捉えていたところから、予定調和ではなく生成的で共創の場であると捉えはじめました。丸ごと違うものになるようでしたが、そこに感じる可能性や見えない何かへの探究心から、コーチが何を信じて生きるかに向き合い、今日まで続けてきました。
いま振り返ると、学生時代に行っていたアプローチを使うこともできたのに、手放すほど強く好奇心が湧いていたことに気づきます。

「あり方」についてさまざまな定義や解釈があると思いますが、私はそれをどんな言葉や表現で捉えるかが大切なのだと思っています。

コーチングは、抑えているものや抑えていても溢れ出るものに気づき、味わい、探究し、少しずつ突き動かされるものに出会っていくプロセス。人は一人ひとりが唯一無二のリソースを持っているからこそ、予定調和ではなく今この瞬間に変わりゆくものを丁寧に扱いたい。だからこそ、実践に意味があるのだと思っています。

ビジョンとつながったクライアントの表情を見た瞬間や、葛藤の先にある変容を目の当たりにする瞬間、そしてその過程で揺らぐコーチ自身の内側にあるものに気づき、丁寧に振り返ること。
目の前のクライアントと創るセッションで生まれるさまざまなものからリソースに気づいてゆく体験が、自然と「あり方」を育む大切なことだと信じています。

すべてのプロセスを味わう

私はコーチングに出会ってから、熱が消えたことは一度もありません。それは、私にとってコーチングが「何かわからないもの」であり続け、そこに探究心が湧き続けているからだと思います。

こうして振り返ると、すべてのプロセスが私にとって大切で意味がありました。
たとえば学生時代はいまと異なるアプローチでコーチングを捉え、実践をしていたこと。遠回りのように見えますが、あの熱を帯びた出会いとプロセスがなければ、私はコーチングを探究しようと思わなかった。自分が好きな感覚、信じたいものに気づけなかった。

これは私のストーリーであり、人によって引かれるアプローチや信じるコーチングの価値が違うと思います。
私は、そのすべてがその方の旅路の中で必要なプロセスであると考えています。違和感があればいつか形を変え、心が魅力を感じれば何度も立ち現れる。

もちろん、コーチとしてのあり方の変容にもすべての道のりに意味があります。
クライアントとのセッションの中で自分に矢印が向いてしまうことや、なぜうまくいかないのかと思うことがあると思います。でもそれは、あなたにとって大切なプロセス。湧いてくる感情や声にせき止めることはできません。(コーチだとなおさらね😌)
それらをただあるものとして受け取ったとき、自分の感情がどう動いているか。心の微細な変化を味わい、気になる感覚の芽を好奇心のままに身を委ねて摘んでみる。

自然に育まれる「あり方」のプロセスすべてに意味があると信じ、心が赴くままにこれからも探究を続けていきたいと思います。

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