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父さん、朝顔咲いたよ

以前書いた亡き父への想いを書いた文章が下書きにずっと保存してあったので公開します。もう2年経ちました。

6月初め、職員室の棚に小さな鉢を置いた。そこには土から顔を出したばかりの頼りない双葉が生えていた。これは生前父が大切にしていた朝顔の種から育てたものだ。
私が朝顔を育てたのは小学1年生の夏休みに成長記録を書いていた時以来、34年ぶりだ。母校の小学校が150周年を迎えたという知らせを聞くと月日の長さを実感する。この母校は現在私が勤務する高校の近くにある。徒歩で帰宅していると小さな後輩たちが自分の身長と同じ背丈に成長した朝顔の鉢を両手で抱え、下校する様子に夏の訪れと懐かしさを感じる。
私は夏休みが嫌いだった。計画的に勉強することが苦手で始業式が迫ってくるまで夏休みの宿題には一切手を付けず、外で遊んでいた。特に自由研究は父に叱られ泣きながらやっていた思い出がある。ある年には「卵の浮力調べ」と称して生卵とゆで卵が浮かぶ水槽に塩を数gかずつ溶かし浮き方を比較するものを、ある年には3つ上の兄と一緒にカニの形に切ったオレンジ色の板を貼り合わせ、モーターの力で作ったシャボン玉をカニの口から飛ばす装置など。今思えば誰の自由研究だったのかわからないほど高校の理科教師をしていた父の力に頼り切ったものだった。きっと当時の担任も父の頑張りに仕方なく賞をくれていたのだろう。
そんな父や同じ職場で教師をしていた母に憧れて学校の先生になりたいと思い始めたのもちょうどこの頃だった。小学校卒業と同時に祖父母と一緒に暮らすため引っ越しをしてもその思いは変わらなかった。大嫌いだった夏休みの宿題をやることはもちろん、高校進学に向けて塾に通い始めたのもその夢を実現したいという気持ちが強かったからだと思う。放課後は毎日のように塾に通い午後11時を過ぎることもしばしばで両親が交代しながら車で迎えに来てくれた。特に父は引っ越してからも同じ職場に勤務していたため母を隣に乗せ、毎日往復3時間の道のりを車で通勤していたことを考えると負担をかけてしまっていたと感じている。
その後高校・大学に進学したが大学では宿題を後回しにする悪い癖が再発し、いくつかの単位を落とし教員免許を取得できず卒業した。就職後は広告営業マンとして全国を転々とする生活をしていた。特に東京では花を見る余裕もなく、ベランダで花を育てようにも土を手に入れることさえままならなかった記憶がある。新しい環境、慣れない仕事にきっとどこかで疲弊して植物に癒されたいと感じていたのだと思う。自然の中で育った私がそのような生活をしている様子を聞き、帰省する度に「岡山に戻ってこい、お前には教師が向いている」とビール片手に父がよく声を掛けてくれていた。一度選んだ道、素直に頷くこともできず自分の将来について悩んでいた。
フリーペーパーを作る職場に出向し、さらに多忙になった。特に校了を迎える月末には丸2日間会社にいたこともあった。さすがに心と身体が限界を迎えていた社会人生活1年半が経ったある晩、「地元に帰って先生になる方法を一緒に探そう」と、突然父から電話がかかって来た。心機一転、ここから2度目の大学生活が始まった。両親から経済的に援助してもらいながら1年半で地歴・公民科の教員免許を取得し、父の誘いもあり両親も勤めていた現在の高校で12年、教壇に立つことができている。
感謝の言葉も伝えられないまま昨年5月、父が倒れた。

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