見出し画像

ヤスハルさん

 薬指に触れ、小さな痛みが走る。彼の指先は欠けた輪郭に沿って虹色に輝いていた。
「ごめんね。痛い?」
冷たい唇が僕の指をちゅ、と舐める。口の中に僕の血の色が透けていた。

 ヤスハルさんは新橋色のガラスだった。つややかな肌はひんやりと冷たい。光の角度で微かに浮かび上がる虹色の傷が、頬を伝う涙のように美しかった。

 僕がヤスハルさんに出会ったのは真夏の暑い浜辺だった。海の家の前に店を出していたドリンク屋台の、ラムネが氷水に浮かんでいる金盥かなだらいの横にいた。冷えたラムネを水の中から取り出す時のかろかろと涼やかな音が今でも耳に残っている。反射した太陽の光に目がくらんだ僕は随分と愉快な顔をしたのだろう。ヤスハルさんはごめんね、とくすくす笑いながらラムネのビー玉を落とした。ぷしゅ、と白い泡が溢れ、ラムネとそれを握るヤスハルさんをつたって砂に落ち、吸い込まれて消えた。

 僕はその時暇な高校生で、それから夏休みの間、毎日、ヤスハルさんに逢うために往復1時間の道を自転車で走っていた。どちらかというとインドア派だった僕は真っ赤に焼けてしまい、初めの一昼夜は熱にうなされたが、それよりも彼に逢いたくて自転車をまた走らせた。ヤスハルさんは苦笑いしながら、冷えた手で火照る顔を冷やしてくれた。ぽっぽと熱くなるのは日焼けのせいだけじゃなかった。

 秋になると海の家はもちろん跡形もなく撤去されてしまったが、ヤスハルさんとは連絡先を交換していたので問題なく逢うことが出来た。夏以外は小さな画廊で働いていたヤスハルさんに逢いに、今度は毎日電車に乗った。地下にあるその画廊には奇妙な、例えば、ホルマリン漬けの白いネズミや、眠る少女の生首なんかが飾ってあった。まるで美術品の一つのように入り口に座るヤスハルさんは、大体いつも画集やポスターをのんびりと包んでいたのだが、静かな画廊の中で話すことも躊躇われ、毎日入場料を払っては挨拶をする日々が続いた。あくまでも事務的に迎えてくれるヤスハルさんに物足りなさを感じた僕は、2ヶ月ほど通い詰めた日の夕方、ヤスハルさんを迎えに行って、告白した。

 それから、冬になった。ヤスハルさんはすとんと生地の落ちる黒い外套を着て待ち合わせ場所にいた。イルミネーションがヤスハルさんの向こう側に見える道を歩く。手袋を付けたヤスハルさんの手をジャンパーのポケットに入れて、それから、頃合いを見て手袋を外してもらった。僕の体温に近付いたヤスハルさんの手は、僕の手汗で少し濡れていた。ヤスハルさんは僕よりずっと大人だったので、それ以上の進展はなかった。

 ヤスハルさんとの仲は10年続いた。高校を卒業して、専門学校に入り、それも卒業するまで、キスすらせずに僕らは過ごした。日が変わる前には家に帰されて、随分過保護にしてもらったように思える。駅前のバス停で、バスの外側から手を振るヤスハルさんの表情は、複雑に夜景を反射して見えなかった。それがやるせなくて、泣きながら電話する夜もあった。ヤスハルさんは電話の向こう側から静かに愛を囁いて、それから、口癖のように、ごめんね、と呟いた。寂しくしてごめんね。期待に応えられなくてごめんね。逢える時間が短くて、ごめんね。たくさんの『ごめんね』は僕の寂しいという気持ちに、優しく被さる羽根のように降り積もった。

 一人暮らしを始めて間もなく、僕はヤスハルさんを家に呼んだ。季節は何度目かの初夏だった。クーラーを効かせた涼しい部屋の中で僕らはついにキスをした。冷たくて硬いヤスハルさんの唇は、その硬さ故に、僕の唇と舌の柔らかさをそのまま押し返して、想像よりずっと優しい“はじめて”になった。唇を離すと、僕とヤスハルさんの体温の差で下唇が薄く曇っていて、それが妙に気恥ずかしかったことを覚えている。それから僕とヤスハルさんは同じ屋根の下で過ごすことになった。

 ヤスハルさんはガラスだったので、時々、薄く剥がれたガラス片が部屋の中に落ちていた。もちろんヤスハルさんが気付いた時にはすぐに片付けていたけれど、気付かないうちに落ちていた破片で怪我をする事が何度かあるうちに、本当に悲しそうな顔で別れを切り出された。全力で首を横に振り拒否すると、ヤスハルさんはまた謝りながら僕を抱きしめた。ヤスハルさんの肩越しに見る景色の端にガラス片が落ちているのを見つけたので、後から気付かれないように拾い、それをお菓子の小さな空き缶に収めた。虹色の薄片が、まるで僕の幸福のように溜まっていったのだが、ヤスハルさんにとってのそれは好ましいものではなかったようだ。

 ぎらぎらとコンクリートが太陽の熱を吸収する8月になって、ヤスハルさんは忽然と姿を消した。海の家も画廊もヤスハルさんの住んでいたアパートも探したが、ついにヤスハルさんが見つかることはなかった。毎日大泣きをして、社会生活もままならなくなった頃に、小さな包みが家に届いた。中にはヤスハルさんの左の小指が、わたに包まれ収まっていた。

──私は元気にしているので、どうか安心してくださいね。あなたを傷付ける事に耐えきれなくて、逃げ出した事、本当に申し訳なく思います。

小さなメモ書きのような手紙にはそう書かれていた。もう二度と、ヤスハルさんには会えないのだという寂しさと、美しい新橋色の小指を残して、僕の初恋は終わってしまった。小指の断面はあの夏の貝のような模様に割れて、虹色に輝いていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?