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読書感想文『おらおらでひとりいぐも』不安に駆られる独身女性が読む

著者:若竹千佐子
発売日:2017/11/16
単行本:168ページ

方言度:★★★★★
人生の孤独度:★★★★★

第158回芥川賞を受賞した、若竹千佐子さんの『おらおらでひとりいぐも』

主人公とは40もの年数が離れたわたしであるが、ひどく納得し、そしてこれからの生の歩みを励まされた作品だ。
本日は、こちらの物語と共に、人生の孤独について語っていきたいと思う。


老年期の孤独ではない、これは生涯背負う孤独である

独身女性の皆様には朗報だ。

人は、独身だから孤独なのではない。生を受けて死を享受するその時まで、人は孤独なのだ。誰かもそう言っていた。ありふれた言葉かもしれない。でもそれは、おそらく正しい。

主人公の現状

この物語の主人公は、70代半ばの「桃子」さん。東北を故郷に持ちながら、集団就職で上京したのち、結婚し、子どもを二人もうけて育て上げたが、旦那に先立たれ今は新興住宅街で一人暮らしである。
一人、というか文字通り独り。そして確実に老いた身体。息子とは疎遠になり、最近交流ができた娘ともどこか遠い。

老年において、彼女の中に根付いているのは、故郷の色だ。同郷の夫、故郷の山、幼き日の祖母の姿、東北弁、そして一人称の「おら」。

時に地球の歴史を回顧しながら、その壮大な時間の流れのほんの一時である我が人生を、脳内の様々な「おら」と東北弁で向き合う。「おら」は、彼女のアイデンティティなのだ。

亡き夫を想い、我が子を想い、「おら」を育んだ東北を想いながら自分の人生を想う。幼き自分、妻としての自分、母としての自分、そして今、独りとなった自分。地球の歴史にも負けないほどの、個人の壮大な人生だ。他者からしたらそれはありふれたものかもしれないけれども。

結婚すれば、拭われるか?

男女ともに独身率があがったにせよ、結婚を望む人間は依然として多い。
(ここでは、人間の社会的責任等は棚上げして話していくので、その点は受け止めてほしい。あくまで焦点は「個人」に絞る)

自分の周囲を見渡しても、当たり前のように結婚を望み、当たり前のように結婚をしていった人が多い。もちろんそこに、愛らしきものがあったわけだが、穿った見方をするわたしには到底それだけとは思えなかった。

漠然とした将来の不安も、結婚への大きな動機付けとなるのである、と思っている。現に、独身の友人は孤独死の不安を抱えていた。わたしも、20代の頃はそんなことを考えて恐ろしくなり、結婚くらいはしたほうがいいかと真剣に悩んだりもした。

しかし、考えて見てほしい。

結婚したとしても、パートナーに先立たれてしまったら?
独りになるのである。当然、どちらかが先立つのであるから、5割の確率で残りの人生は独り。

子宝に恵まれれば、老後の心配はないのか?
血の繋がった子どもであれ、当然ながら子どもには子どもの人生がある。自分の元から巣立つ子の足をひっつかんで足枷になる勇気(あるいは鈍感さ)があるならば、老後の不安から解放されるのかもしれない。
自分が死ぬまでそばにいてほしいなんて、健全な親は言えるだろうか。

老後は施設に入り、自分の子どもが定期的に会いにきてくれるとしても、それで孤独は拭われるか?
わたしは、祖母の表情を見ているとそうとは思えないのだ。すっかり弱く小さくなってしまった祖母は、自分より弁が立つようになってしまった娘の世話になり、同じように歳をとって生きてきた夫を亡くし、申し訳なさそうに笑い、うつむき加減でぼうっと一点を見つめて、何を思っているのだろうと想像すると、そこには孤独が透けて見えてしまう。

これらは、わたしが勝手に想像しているだけのこと。でもなんだか、「おらおらでひとりいぐも」の桃子さんに、そのような寂しさを見出してしまうのだ。

孤独とは何者か

圧倒的な孤独を感じたことはないだろうか。

なんだこれは、と。同時に、わたしは絶望的な気分になったのを覚えている。誰かがそばにいても、孤独からは逃れられないのだと。一生、離れられない感情なのかと。これは、一人かどうか、という問題とは決定的に異なる。

かつて、大学の恩師が言っていた言葉が蘇る。

「孤立と孤独とは違います。孤立とは、周囲に人がいない、物理的な状況のことです。一方、孤独とは、人と繋がりたいという思いが根底にある状況です。孤立は寂しくない。孤独は、寂しいのです」

人との関係を焦がれる、それが孤独の正体だ。

孤独にも、段階があるように思う。なんとなく寂しい、誰かと話したい、という浅い階層の孤独はその辺に転がっている。
だがしかし、人生の中には「圧倒的な孤独」なるものが存在し、己を死に至らしめるほどの暴力的な感情がある。
その根幹となるものが、桃子さんの言う「定点」にあるように思う。

桃子さんにとっての定点は、夫である。自分の定点。心の拠り所であり、今もなお桃子さんが支えとしている存在である。いつでも亡き夫の姿を探し、その時へ戻り、けれども現実に帰れば喪失感に我を失いかねない。

桃子さんは、夫という存在によって、この世界と繋がっていた。自分と世界を繋ぐもの、それが定点だ。定点を失った彼女は、ふわりふわりと宙を漂うしかない。糸の切れた凧のように。

桃子さんが孤独なのは、それほどまでに焦がれるものが自分の中に存在しているという証なのだ。それは夫だけではないかもしれない。失ったすべてのものに対する、桃子さんの激しい郷愁。過去の「自分」を含めて。

失ったものの存在が大きいほど、人は圧倒的な孤独に支配される。され続ける。もうその対象と繋がることができないのだから。

でも、わたしは独りで生きていく

桃子さんは失ってから、東北弁で脳内会話を始めるようになった。東北弁も、桃子さんにとって失っていたものであったようだが、この時になって「おら」という故郷の言葉が戻ってくる。「おら」と対話する。

桃子さんの中で息を吹き返したのが、郷里の言葉だったのだ。妻という役割を失い、母という役割を失い、現れたのが、何者にもとらわれない自分自身。あるいは、自分を定点とする覚悟を持って。

「おらおらでひとりいぐも」

弱りきり、孤独を感じる桃子さんだが、「わたしは一人で逝く」ではなく、「わたしは独りで生きていく」に変化していくラストが秀逸。

東北弁という言葉で新たな繋がりを見出した桃子さんの、心温まる終結だ。きっと、一人で逝く、ではないんだろう。そう思わせられたのだ。


この本について

多く、東北弁で書かれています。東北というか、岩手弁かなぁ。

自分は東北弁を使えないけれども、耳に慣れた言葉ということもあってとても読みやすかった。あのイントネーションを見事に文字で表現したのはすごい。わたしの体感ではありますが、あの岩手弁を話せる人も多くはないはずで、方言はどんどん失われています。

著者の岩竹さんは、岩手の遠野出身だそうですが、岩手を離れての年月が長いにも関わらずにあの文体を書けることに感動を覚えた。同年代の母は、あんなふうに郷里の言葉を操れないから。

少し前にやはり芥川賞をとった「影裏」も岩手が舞台となっていますが(著者の沼田真佑さんは、受賞時点で岩手在住ですが、ご出身は違うようです)、ところどころに出てくる方言や訛りに違和感を覚えたのも事実。生きた言葉を文字で表現することの難しさを感じました。

同時に、この方言や訛りを理解する選考委員さんたちもすごい!!!なんて思ったけども、レビューなどを見るとみなさん読めているようですね。わたしは東北人だから読めたのかと思っていたけど……

ただ、通じにくい東北弁の語り口のあとには標準語で繰り返したりしてる部分があるので、それなりに意味がわかるようになっているのかも。

とにかく、東北弁の柔らかさを、岩竹さんは小気味よいテンポで執筆されていて、まさにそれは音楽のようです。おしゃべりはまるで協奏曲。

また、70代半ばの主人公、という圧倒的大先輩が語り継ぐ物語に共感できそうにない、と遠慮してしまう方もいるかもしれませんが、わたしは「おひとり様」不安に駆られる独身女性におすすめしたい。桃子さんの感覚に、共感する女性も多いことと思う。

\文庫版はこちら/


※本記事は、2018年3月12日に自サイトにて投稿した文章に加筆修正したものです。


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