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「私」の8割は愛した人たちで作られている
18歳の頃は、コーヒーが飲めなかった。彼のコーヒーを「一口ちょうだい」とた度々いただくうちに、一口じゃ済まなくなって怒られていた。今や立派なカフェイン中毒者だ。
好きな人に影響される、というよりも、好きな人が好きなものをわたしも好きになりたいと思っていた。そうして生きていたら、わたしの好きなものってだいたいが愛した人の産物だったりすることに気付いた。好きな人が「良い」と言ったら、それは無条件に良い。no reason なのだ。(嫌いな人が「良い」と言ったら、いくら良いものでも嫌いになる)
それは、未だに生活のあちらこちらに息づいている。
圧倒的に好きな本、スニーカーと言ったらコレかコレという限定、ファッションに関する嗜好、学問、目玉焼きの焼き具合。
話し方、メールの打ち方、食べ物の習慣。アイス。缶コーヒー。チャーハンにはベーコンを入れること。
好きな数字の並び、お酒の飲み方、世界へのこだわり方。不謹慎な思想。イモリ。
科学館、ニース、砂漠、体位。
触れ方。
愛した人の習慣ややり方が、わたしのそれになり、わたしという人間に組み込まれる。わたしの血となり肉となり、わたしの魂になる。できれば全部、食べてしまいたい。
親元を離れてからのこうしたわたしのメタモルフォーゼは、わたしの生き方そのものだった。30歳まで。たぶんもう、最終形態だ。だから、これ以上取り込みたくない。変わりたくないなんて、思ってしまうのだ。ここからはもう、メタモルフォーゼじゃない、ただの侵害とみなす。というふうに。こんなふうになってしまったことを後悔するには時間が足りず、薄膜で覆いこんでいる。
わたしはいつか、羽化するんだろうか?
思い返してみれば、わたしの視野を広げ世界を広げ、幸福や苦悩を知らしめてきたのは全て他人であり、愛した人たちであった。人との関わりを意識的に拒むようになり、そうしたら、あっという間にわたしは止まった。
不運にも時折、人と知り合い、生の人間の興味関心に触れると、そんな世界がまだまだあるのかぁと感動してしまう。しかしそれは、本意ではない。わたしが新しい何かにならぬよう、わたしは細心の注意を払って生きることにしている。自分が自分の意思で積極的に仕入れるテキスト情報だけを取り込むようにしている。
わたしは、わたしの中にある幸せの形を壊してしまいたくないと、必死になってしまう。他のもので上塗りしたくないと望んでしまう。
わたしの8割は確実に、これまで愛した人たちでできている。わたしは、今の自分が嫌いではない。それは、わたしが愛した人たちに形作られた「私」だから。
※本記事は、2018年8月7日に自サイトにて投稿した文章を加筆修正したものです。
※※追記 わたしの時間は動き出し、なんなら羽化しちゃって、今生最後の愛する人と自由に舞っています。
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