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エレファントインザルーム

婚約した紗枝と灯。紗枝の父親は義父であり、彼女は幼い頃に恋とも言えない感情を彼に抱いたことがあった。その記憶に罪悪感を感じている紗枝は、義父との関係がぎこちなくなってしまう。そんな彼女の様子を見た婚約者は不審に思い、結婚までに気持ちを清算して欲しいと詰め寄る。結婚式の日に、自分の手をとる姿を見て過去の出来事を思い出し、彼が不安の中で父親になったことを知り、大人だと思っていた父も悩み戸惑っていたことに気づく。

停車する駅の間隔がまだらな電車に揺られながら、夢と現の境界がはっきりしないまま、かろうじてこちら側に意識をとどめている。昨日同僚と飲んだ酒が残っていて、電車の揺れが強くなると、首の後ろからウィスキーのにおいがする気がした。夢心地から急にはっとここが電車の中であるのを意識したところで、灯が視線の端を手元の本から少しこちらに渡したのが分かった。
車内の空調に当たって冷たくなった左手が四角い景色からさす光にさらされている。指の付け根をなでると、少しゆとりのあるプラチナの台に楚々と並んだ輝きが動きプリズムが乱反射して、手の甲に星が散ったように模様が映った。
「そんなにのんだの昨日は」
「うん、明日はでかけるって言ったんだけど帰してくれなくて」
まだ必要以上に左手を意識してしまう。知らずのうちに失くしてしまっていないかとか、どれほどきれいだったかなと思いだすたびに確認せずにはいられない。
一か月前の私の25歳の誕生日に、彼らしくもない神妙な面持ちとともに告げられた言葉と一緒に、それ以
来私の薬指は呪いがかかったように、一聴切なげに聞こえる約束を従えている。
「ふうん、まあいいけど。きぶんが悪いなら言ってよね。」
本当に興味がなさそうにそう言って、キャッチーな英語をゴシック体で飾ったビジネス書に再び目を伏せた私の恋人は、月並みの恋人たちのように束縛をしてみたり、私が私であること以上の期待を私に向けない。それはどうもほかの恋人たちからすると、それって本当に好きなのか分からないということになるそうだ。
「お母さんたち、もうあっちについたって。」
「そっか。到着する時間だけ知らせておいてよ。食事は18時半からだよね。レンタカーの受け取り間に合うかな。」
そう呟きながら一向に本から目を離さない彼の器用さに私は関心をしながら、母に、もう近くまで来ていることをメッセージで告げた。
【了解しました。お父さんとのんびり下で行ってるので、夕方になると思います。懐かしい、一度お父さんと果歩ちゃんと、四人で来たの覚えてる?】
【覚えてるよ。わたしは大学の時に何度か行ってるけど。】
4人で旅行に行った時のことはおぼろげに覚えている。妹の果歩がまだ1年生とかで私が4年生とかそのくらいの頃だ。ワニ園の仕切られた展示スペースの隅で、何年もそうしているように微動だにしないワニに母が何かを投げるふりをして、その瞬間に野生を思い出したようにしっぽを水に打ち付けた。緑色の藻が繁殖した水面がざ
わついたり、てらてらした口の中に藻が張り付いているのを、歯がゆい気分で柵の鉄のにおいが感じられるほどに近寄って見た。
そのすこし前に母に工藤さんという男性を紹介され、その人が今の父になった。工藤さんと呼ばれていた当時の父は、今思えばまだ30後半そこそこで、男の人とろくに話した記憶がないわたしたちは、彼がすることなすことに付箋をつけておいて、その夜は豆球に電気を落とした部屋でそれを手掛かりに二人でよく父について話し
た。
「伊豆って、私少し怖くて。子供の時にみたホラー映画の舞台になってて、毎回行くときそれ思い出すんだよねえ。」
「それ絶対リングでしょ。」
読んでいた本を伏せて、目を閉じて伸びをした灯が乾いた声でおかしそうにカカっと笑って、うける、とつぶやいて私の手を取った。
「すこし緊張してきた。両親ってどんな人?」
「あなたでも緊張とかするんですね。どうなんだろ。いい人たち、かな。父とは、血がつながっていないから。だから今まで育ててもらって感謝してる。実の親だったらそこまで思わないのかな、わかんない。」
物静かで純朴な人で、母は家族に尽くしてくれる父を、「本当にいいパパだよね」といっていたし、本当にそう思ってるのだと思う。その後には、おそらく私たちの実の父親を非難する言葉が続くのだろうが、意地なのか母がそれを言うことはおそらく今日までなかったと思う。

「そっか。僕はそういった類の感情は特別に感じてこなかったけど、わかる気がするよ。その、親子愛というやつは。」
初めてこちらに横目で視線をやって、薄く口の端を上げた彼に、私は同じ分だけ手を握り返した。


会社の先輩だった灯を食事に誘ったのは、私のほうからだった。私が入社してすぐの歓迎会で、若手なのに幹事をするでもなく先輩よりも遅れてきた灯は、店員を見もせずに憮然と「ビールで」とだけ告げてから、空いた席に座った。運ばれてきたグラスに神経質そうに口をつけ、この卓新人いるんですか。と興味がなさそうにつぶ
やいた。
「おまえほんと相変わらず清々しいやつだなあ、高藤さんのとこで
うまくやれてんのかよ。」
その様子をみて灯の異動前の上司である友田さんが、息を吐いた。
「いまは結構自由にやらせてもらってますよ。あの人は結果さえ出せば最低限のこと以外は何も言わないし。」
友田さんとはマネジメントのスタイルが違うんですよ、と小さくつぶやいて、乾燥した店内で目が乾くのか、青いキャップの目薬を紺色の細身のスラックスから素早く取り出して、顎をあげて器用に両目に点した。首から顎にかけての線が女性のように痛々しいほど白く細く、首の中腹の引っ掛かりが、シャツの間からちょうど見え
た。しばしばとさせた切れ長の目の縁のまつげが、薬に濡れている。私がそれを盗み見たのを感じたのか、本当に一瞬の間目が合った。
友田さんが、まあこいつは生意気だけど優秀だしかわいい奴なんだ、と灯の肩に手を回すと、灯は腕の時計に目をやって、肩をすぼめてまたグラスに口をつけた。
結局その日は、テーブルが変わったりして彼と話すことはなかったが、遠目に見ていると、友田さんやほかのメンバーの話を、相槌こそ打たないが、彼なりに聞き入れて考えるような表情をしていることに気づいた時には、すでに私は彼に強い興味を持っていた。


「こんな偏屈と飲んでみたいなんてあなただけですよ。サシでは初めて誘われた。まあ誘われてもいかなかったけど。きょうは、ちょうど腹も減ってたので。僕お酒弱いのであまり飲ませないでよね。あした朝一で会議だし。」
会社近くのバルに少し遅れてやってきてスツールに腰をかけながら、開口一番に早口で告げた灯は、あからさますぎて可笑しくなるくらい斜に構えていて、私のすべてを疑ってかかった。男を手玉に取って遊んでいるに違いない。ほかのやつは騙せても俺は騙されない。あなたみたいな人が男をつけあがらせる。そんな言葉をひと通
り私に浴びせた。私は、かえって彼がとてもいじらしくて正直な人なんじゃないかと思えてしまって、変に口説かれるよりも興味をひかれたが、それを笑って黙って聞いていたのが、さらに彼を疑心暗鬼にさせたようだった。ひとしきり難しい顔をして横で失礼なことを言った後は、だんだんとお互いの大学時代の話をしたり、異動した先の部署の煩わしい政治を灯が皮肉ったりして、彼の臆病で強がりな言葉は、裏拍子のように私の胸に響き、それは私を傷つけなかった。
ワインを1本開けたころには、完全に酔って顔を赤くして幼い表情になった灯は、少し無口になったあと私のグラスにワインを注ぎながら、話し出した。
「僕は今まで女性を好きになったことがない。母親がいつも父親に痛めつけられている家庭で。まあ何が一番気持ち悪いって母親もそれを望んでいることなんですよ。共依存ていうやつだね、その時はわからなくてかわいそうな母親をかばったりもしたけど、後から知った。だから僕はそのかわいそうって愛情しか持ち合わせていない
んです。」
投げやりな物言いの一方で拗ねたようにそう言った彼は、少し驚いたように口元にこぶしをやって、座っていたスツールを引いて身体を揺らした。その一連の動きに媚びるような匂いを嗅ぎとって、グラスに残っていた白ワインで口を湿すと、リースリングの甘みと洋ナシの香りが鼻を抜けた。それから目の前の無防備な彼をなだめるようなことを私がいって、駅で別れた次の日の朝から、彼からは折り目正しく誘いの連絡が来るようになった。


予約したオーベルジュは、駅から小一時間ほど山道を登ったところで、急に反れた砂利道の先にあった。うっそうと茂ったブナの木々に隠れるようにして、焦げ茶色の印象的な体躯の建物が、ライトに照らされ暮れかけた森に浮かび上がっている。奥のスペースには、見慣れたものとあと2台ほど首都圏のナンバーの車が止まっていた。ジイと、頭の上で東京では聞かない高い鳴き声がした。日が完全に暮れるあともう間もなくのあいだに巣に帰るのだろうかと思いながら、灯に続いて親切で控えめに足元が照らされたアプローチを進んでいく。
落ち着き払って灯がチェックインを済ませるのを横目に、ロビーの横の小さなライブラリーを覗いて数冊手に取ってめくったり、ローテーブルに置かれた近隣の観光スポットのパンフレットを手に取った。車を運転しないので全然わからなったが、あのワニ園は半島の逆側にあるらしい。近くに灯台はないかなと探す。あの白々として岬に立って海風にさらされる姿に惹かれて、海のほうに旅行するときはたいてい立ち寄る。そのあたりはいつも風が強くて、下から吹き上げてくる風や波しぶきを見下ろすと急に頭に重力を感じて、足に力が入ってしまう。それからその周りをぐるぐる回って、何とかこの中に入ってみられないものかと毎回思うのだ。
「チェックイン終わったよ。荷物を置いたら丁度かな。」
「ありがとう、灯台があるみたい。明日行ってもいい?」
灯台をみたいの?と彼が不思議そうに私が持っているパンフレットを手に取った。
「なんだ近いな、明日なんの予定もないしほかに行きたいとこあれば行こう。」
温泉にでも浸かって帰るかと珍しくはしゃいだ様に灯が言った。


受付で名前を告げて案内された奥の個室に、両親と妹が座っているのが灯の肩越しに見えた。
「こんばんは、初めまして、尾山灯と申します。」
普段のぶっきらぼうな彼からは程遠い声色で挨拶をする灯をみて、今日はビジネスモードで乗り切るつもりだなと、すぐに理解した。
最初に立ち上がったのは父だった。少し伏せられた目元がダウンライトの照明に照らされて、目の下に淡い影を作る。肉体的な盛りを過ぎたとはいえ、生まれつき容姿に恵まれた人間特有の素朴な艶をまとった姿は、久しぶりに見ても、また初めて会った者にも、好印象を与える佇まいだ。一方で歳相応に目元を崩して、淀みなく挨拶
をする姿は、経験や寛容、親しみを相手に伝えた。
その横に寄り添うように母と妹が余所行きの笑顔を浮かべていて、彼の表情や姿や言動の端々を、それぞれが思い浮かべていた彼の像とつなぎ合わせる作業をしているようだった。ひと通り挨拶が終わって、すかさず母が私たちに座るよう促すと、それから前菜とお酒が来るまでのしばらくは、すっかり母のペースで話が進んだ。
「山道、大変でしたよねえ。紗枝は運転しないんでしょう。」
「ええなんとか、でもこの辺りは景色も見どころが多くて気持ちいいところですね。」
母の隣に座っている果歩は、緊張しているのか私とたまに目を合わせたり、灯をチラチラと見ているようだ。灯は小顔で歳も若く見られることも多いので、私が今回伝えていた事前情報とイメージがちがう男がきて面食らっているのだろう。
「僕の両親はもう還暦近くでして。紗枝さんのおうちは皆さん若々しいですね。」
「灯さんも写真で見てたよりかっこいいわあ。面食いは遺伝かしらね。」
母がオレンジベースの色のリップで縁取られた唇の両端を上げて、茶化したように父と果歩に言った。綺麗というよりは愛嬌のある輪郭は妹とよく似ていて、直線的なパーツが多い私とは、昔から同じものを身に着けても全然印象が違うのだ。
「パパのジャケットわたしが一緒に行って作ってもらったやつなの、とてもいいでしょ?」
果歩が言う通り、余計な柄が入っていないシンプルな張りのある仕立ての紺のジャケットは、父の体の線に寸分狂いなく沿っていて、質のいいものに見えた。
「紗枝さんから聞いていましたが、本当に仲がいいんですね。」
「ええ、パパは果歩に特に甘いんです。大学に上がったのに時々お小遣いもあげてるみたい。私が妬いちゃうくらいの時もあるの。」
「えっやだ、ママそうなの。」
わずかに返事をためらってから、お父さんは幸せものですねえと灯はぼんやりと言った。圧倒されながらも、テンポよく会話を打ち返していく灯は、普段は絶対進んでしないお酌までしている。
「紗枝ちゃん、」
いつもは妻娘が話しているときは、完全に話の流れをゆだねている父が、珍しく口をはさんだ。
「とても指輪似合ってるね。きれいだね。」
「ありがとう。灯さんが誕生日にくれました。」
ビールのグラスを口につける灯の手が止まったのが横目で分かった。
「尾上さん、紗枝ちゃんのことよろしくお願いします。」
その日父は今回の結婚についてそれ以上のことは何も言わず、ズッキーニやパプリカで鮮やかに彩られた鶏のコンフィの皿が目の前に置かれたときに、一度だけ薄く私に微笑みかけた。



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