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エレファントインザルーム(3)


夏休みに入ってすぐの夕暮れの河川敷は、例年の通り多くの人でごったえがえしている。その日は冷夏と言われているにしては昼に上がった気温がなかなか下がらずに、川沿いに茂った草が水分をおびて、土の匂いを放っている。その中をかき分けるようにして皆思い思いにシートを広げて足を投げ出し、花火が打ち上がる方向を眺めている。
「紗枝ちゃん、綿あめがあるよ。買ってきてあげようか。」
「うーん、綿あめ、、」
浩太くんは黄色い天幕に綿あめと書かれた屋台を、先ほどとった水ヨーヨーをぶら下げた指で指さした。中に入った水がばちゃっと音を立てて、ピンク色にカラフルな水玉模様が描かれた風船が揺れた。鼻のあたりに近づくとゴムの匂いがするし、手に取れば水が入っているところはとても冷たく感じる。浩太くんが持っているヨーヨーは、私が一番最初に狙ったけども、紙でできたひもがちぎれて取れなかったのを、浩太くんがとってくれたものだ。最後に屋台のおじさんが好きなヨーヨーを一つくれることは、去年もやったから知っていたのだけど、途中で浩太くんがおじさんにお金を払って、子供たちの中に混じって釣ったのだ。
取れたら困るからと、少し強めにぎゅっとお母さんが締めたクシュっとしたちりめんの帯は、去年まではお気に入りだったけど、通学班が一緒の向かいの家のお姉さんが大人と同じ帯をしているのをさっき見てから、途端に子供ぽっく思えてしまう。
「まいったな、ケイタイが通じない。」
浩太くんがケイタイを耳に押し当てたまま私に目配せした。お母さんと果歩はすでに場所取りをしてあるシートに先に向かっていて、私と浩太くんは買い出しを頼まれたので花火が始まるまでに合流する予定なのだ。
「浩太くん、お母さんがさっき橋の近くならまだ空いてるかもって言ってた。」
「そうだ、そうだね、じゃあそっちのほう歩いてみよう。」
去年からはいている下駄は、今年になって少しかかとが出てしまうようになって、少し歩きづらい。花火の打ち上げ地点の近くになると、ぐっと人が多くなってきて、浩太くんの来ている青いポロシャツと白いズボンの組みあわせの後を離れないように歩いた。時々浩太くんが振り返って私を見るとき、わたしは恥ずかしくて、いつも下を向いりヨーヨーをいじったりしていたと思う。当時の浩太くんは髪は短くて、つんつんした髪型をしていた。すこし笑い方もいまどきのお兄さんっぽい感じで、笑うと眉毛が下がるのが犬みたいだ。
宵の頃が近づいてきて、形のきれいな大きな雲は陽の光に照らされて少しピンクがかっている。川沿いに並んだクヌギの木には、大勢の人の声に混ざって蝉の声が響いて、いよいよ始まるのか少し火薬のにおいもあたりに立ち込めてきた。少しずつ浩太くんの背中が見えにくくなってきたと思ったら、ずっと見ていたはずなのに違う人の背中を追っているのに気づいた時には、近くに浩太くんの姿はなかった。
「浩太くーん」
最初はすぐに見つかるだろうと思っていたけど、周りの人たちがどんどん前に進んでいく中で、青いポロシャツは全然見つからなくて、急に不安になってきたが、同時になぜか冷静で、明るい屋台の近くで待って居ようと考えて、フランクフルトとパイナップルの屋台の間で人の流れを見つめていた。
皆迷子のことなんかお構いなしに楽しそうにしていて、屋台の灯りに照らされた顔はテカテカしている。その中で父親に抱かれた黄色い甚平を着た女の子がようやくこちらに目をやった。体を預け切って足を放り出してぶらぶらとしているのに、目線だけが私をとらえて離さない。ただでさえ迷子で心細いのに、居心地が悪くなって思わず下駄の鼻緒を見つめた。

紗枝ちゃんと慌てて走り寄ってきた浩太くんは、額に粒の汗をつけていて、見たことのない表情をして、しきりに私に謝った。ケガはないか、知らない人に声をかけられなかったか、怖い思いをしなかったかと何度も確認をするので、喉がぐっと悲しくなるのをこらえて大丈夫だったよと答えたけど、とたんに切なくなって涙がこぼれた。浩太くんは私の目をじっとみて、気の毒なくらいごめんねとまた謝って、今度は私の手を慎重にとった。

気が付くともうすっかり日は落ちかけて、色とりどりの光が浩太くんの横顔に映るのを、歩きながら見ていた。浩太くんの手は大きくて、私の手を握る力は加減されていても強かった。時々こちらを見下ろす表情からは、今度は少しも感情が読み取れなくて、私は少し怖くなって、でも目が離せなくなって、つながれた手ははぐれないことの安心というよりは違和感の正体がわからず混乱していて、初めての男の人の手の乾いて厚い掌の感触がひどく恐ろしく感じられて、その熱が伝わるように自分の体の形を感じるくらい、体温が上がるのを感じた。
浩太くんに手を取られて歩き始めて5分ほどたったとき、ちょうど花火大会の開催場所の中心に差し掛かった時だった。そのあたりは放送用のいろいろな機材や来賓の席などが設けられたテントがいくつか立ち並んでいて、その中の大会本部のテントの中に、青のハッピを着たクラスメイトの姿を見つけた。私の心臓は大きく跳ねて、嫌悪感のような気が遠くなるような得体のしれない感情が、つながれた手から浩太くんに伝わるのではないかという逃げたい気持ちに支配された。手をほどこうにも浩太くんの力は強くて、途方に暮れた私は、黙って浩太くんの横顔をまた見上げた。
「紗枝ちゃん、花火見える?」
急に目が合って目を見開いた私を、浩太くんは一瞬だけ不思議そうに見た後、急にそらされた視線は私を絶望させた。ついぞ私の声にならない気持ちが見透かされて、ドーンという花火の音がお腹に響くのを感じた。

次の日から私が浩太くんのことをお父さんと呼ぶようになって、最初浩太くんは驚いたような顔をしたけど、すぐにやさしく微笑んで、あの日から変わらず紗枝ちゃんと安らかに私の名前を呼ぶ彼とのコミュニケーションは、あの日暗黙的に引いた線の範疇を超えることは一度もなかったし、それは二人の間で危なげなく厳密に保たれていた。
年頃の娘と父親の間で、そう会話が生まれないことはさして珍しいことでもないのかもしれない。でも妹の果歩が彼にじゃれつくように話す姿も一方で普通の父娘らしい営みにも見ることができた。あの日の憧れと嫌悪と恥ずかしさのすべて、密やかな思い出にとらわれたままだ。

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