エレファントインザルーム(4)
「悪いね、お疲れのところ。」
見慣れた部屋のドアを開けると、額に冷えピタを貼った灯がベッドの中からのそのそ出てくるところだった。終業間際に灯からのメッセージを開くと、風邪をこじらせて寝込んでいるため、何か適当に届けてほしいということだったので、薬局で薬とお腹に入れるものを買ってきたのだ。
「ううん、熱が高そうだね、大丈夫?」
「久々に39度まで出た。外せないミーティングだけ出て、後はずっと寝てたけど、夕方から熱上がってきたみたい。」
床に放りだされたノートパソコンからは、しきりにメッセージが届いた通知音が響いている。
白いシャツから出ている首を触ると熱が掌に伝わり、寝ているときに汗をかいたのか、襟がしっとりと濡れている。
さすがに辛いのか、ベッドに腰かけてふぅと息をつく姿は、威勢のいい時のいつもの姿を思い起こさせて、気の毒だが少しおかしい気持ちになった。
まなざしもいつになく力なく緩んだ感じで、何かお腹に入れて薬を飲んで、早く寝かせたほうがよさそうだ。
「おかゆ、つくるから、食べたら薬を飲んで寝ようか。」
「うん、梅干しのやつ、がいい。」
「はあい。」
灯が布団から顔だけ出してキッチンにたつ私を見ている。
灯は、付き合ったばかりの頃は本当に自分の希望や感情を、私に伝えることをためらった。恥ずかしいというよりも、自分の欲への自罰的までもある彼の抑圧的な言動に毎度付き合いながら、私はどこかいつも深く共感していて、どうしてか私自身が癒されていくのを感じていた。
口元におかゆを運ぶと、自分で食べられるよといいながらも素直に従う姿は、まるで小さなこどもだ。熱はあるけど食欲はあるようだ。どんどんと小ぶりな土鍋があいてくのがおもしろくて、私も夢中になって粥をすくった。
「なんか楽しそうだね。」
「うん、なかなかこんな機会ないでしょう?」
「これからいくらでもあるよ。」
私たちはまだ恋人だけれど、家族の一歩手前に今いるのかもしれない。
そしてこれから、私たちは本当に家族になって、いよいよすべてが明らかになって、私はこの人の妻、この人は私の夫になるのだ。喜びや苦しみを分かつたった二人になるというのに、私はまだこの人に、すべてを預けていない。
「こんなかっこ悪いとこさ、自分以外は一生知らないんだろうって思ってた。」
灯はズズッと鼻をすすってくたっとそう笑って、だまりこんで止まった私の手に握られているレンゲを、自分で口元に持っていった。
私はちゃんと表情が作れているのかわからなくなって、灯の目を見ると、熱でうるんだ目の奥に静かな苛立ちを見つけた気がして、途方もない気持ちになった。
「私は、、」
言葉に詰まった私に、灯は少し黙ってから、「今日はもういいから。お粥とか、ありがとう。」と言って、またもぞもぞと布団に入って、すぐに寝息を立て始めた。
額にかかった前髪をかくと、少し長くなってきた猫っ毛の細い髪が手に絡みついた。年齢よりいくらか幼く見える面差しは、前髪をおろして目をつむっていると余計に幼く見えた。
「私は、あなたの家族になれるかな。」
頭に浮かんだ言葉を実際に声に出してみると実感がこもってきて、頭の隅で思いがけずなつかしさがこみ上げた。
その切なく温かい響きに、頬が一筋濡れた。
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