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歴史の中で繰り返しを続けるだけだと思う。ただ、高知の「おきゃく」が理想の姿になる

「dancyu」の編集長、植野広生さんが今回のゲストです。特別感を追い求めたグルメ情報ではなく、知るはおいしい、ふつうでおいしいを、雑誌だけではなく、自らプロデュースするイベントや他メディアへの露出でも伝え続けています。コロナによって「ふつう」であることがいかに幸せであるかということに気づいたこの世界が、30年後の食も「ふつう」でいられるのか? そもそも、ふつうの食ってなんだろう。“食いしん坊の権化”に伺います。ダジャレは封印。

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植野広生(うえのこうせい)1962年栃木県生まれ。大学在学中から銀座の黒服をはじめ多数の飲食店でアルバイトを経験。卒業後、新聞記者、経済誌の編集者を経て2001年、プレジデント社に入社。以来「dancyu」の編集を手がけて2017年4月に編集長に就任。BSフジ「日本一ふつうで美味しい植野食堂」など多くのメディアに出演中。「土佐のおきゃくPR大使」「誇れる宇都宮愉快市民」。https://dancyu.jp/

コロナによって自分のよりどころとなる店の
存在の大きさに気づくことができた

――残念ながらまだ終息はしていないですが、飲食業界にとってコロナはやっかいでしたね。

植野 あおるような報道に意味のわからない政策のオンパレードで、2年半ぐらい本当に窮屈でした。でも、コロナは悪いことばかりでもなかった気がします。コロナがちょっと落ち着いてきて、ようやく外食ができるとなったときに、みんな最初に「どこの店に行こうか?」を考えたでしょう。そういうとき、予約がとりにくい店に数か月待って行こうとはしないと思うんですよ。ミシュランの星がたくさんついている店や食べログの点数が高い店というよりも、自分が本当に好きな店であり、自分にとってなくなっては困る店をまず考えてすぐに行きたいと思ったと思うんです。もちろん、人によるんですけどね。

――確かに、制限がゆるんだとたんに、あー食べたいなー、行きたいなー、と素直に思い浮かべた店がいくつかあります。

植野 コロナといういつもとは違う状況の中で、自分はやっぱりあそこが好きだったなと再認識ができたのではないでしょうか。そもそも食というのは嗜好性が高いものなので、本来、自分なりのよりどころがあるはずのもの。それなのに、あまりにも外部の食情報にふりまわされて、本来の自分のより所を見失って、ある意味、無理をして行動していた人たちが多かったと思うんですよ。それがコロナによって当たり前のことができなくなって、当たり前のことがいかに心地よいことかに気づくことができた。

――30年後のインタビューをしていると、アフターコロナがキーワードになって、コロナが時代の分岐点という話によくなるのですが、当たり前のことに気づく、という視点はちょっと力が抜けたようでいいですね。

植野 地球の悠久の歴史を思えば、30年というのは一瞬ですよ。いろいろなことを繰り返して今があるわけで、コロナも「いろいろなこと」のひとつです。そしてこれからも、いろいろなことは起こる。自然環境でも社会情勢でも政治でも事件でもなんでも、とにかく、いろいろなことが起こって世の中の流れができ、その流れに沿って食の流れもできる。たとえば景気がよくて世の中が浮かれてるときにはチリカベ(チリ産のカベルネソーヴィニヨン)が流行ったように、株価が高ければ、濃いワインが世界中で飲まれるし、株価が下がったり世界情勢が不安になったりすると、ソーヴィニヨンブランのような軽めのワインが飲まれる。行ったり来たりの繰り返しで、流行というのもそういうことだと思います。今は不景気だなんだと言っていますけど、また景気はよくなります。繰り返しですから。とはいえ、反省をしているからバブル期のように浮かれることはないと思いますけどね。

――それって、結論からいうと30年後は・・・・

植野 そう。大して変わらない。流れがくり返されるだけ。

――ありゃ。でも、変わらないでいるためには、食がこれまでとおりに安定して供給されなければならなくて、でも今後はそれがむずかしくなるのではないかと言われていますが。

植野 それもおそらく、歴史上、繰り返されてきたことだと思いますよ。人間は頭のいい動物ですからね。環境に適応していく能力がある。僕はそこに期待したいですね。環境に負荷を与える肉を食べるのをやめましょう! 大豆ミートを支持します! という思想だけにつられて極端に走ってしまうと、「あそこの店は予約がとれないから行こう」という理由だけで店を選んでしまう考え方と変わらないと思います。サステイナブルも、いま流行りみたいにいわれていますが、産業革命以前はみんなサステイナブルだったんですから。そう考えると、昔ながらの伝統的な知恵と技を今改めて見直してみるといいかも知れませんね。でもそう言うと、今度はそれをキーワードにして、熟成がなんだ、発酵がなんだ、と言い始めてワイワイしてしまうのかもしれないけど。でもそれも、歴史の流れの中においては淘汰されていくものだと、デンと構えていればいいのだと思います。こう言うとベタだけど、やはり、本物が残るわけですよ。そしてそれが本筋です。

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――植野さんのいう本物というか本筋ってなんですか? もう少し聞かせてください。

植野 人という動物が他の動物と違うところは、食べて感動するところだと思っています。動物は満腹になることが最大の目的ですよね。生きるための食であり、エサです。それがちょっと高度な動物になると、満足を得るようになっていく。そしてその先に、感動がある。「いや、お前が気づかないだけで、俺は感動しているんだ」というオランウータンはいるかも知れませんが、まぁ、一般的に。感動というのは、やはり人にしかわからないですよ。そして、自分にしか味わえない。昔と今と、自分が感動した料理を思い返してみたとき、「あれ? あの感動は何だったんだろう?」って思う料理もあったと思います。それは一時的な感動で、いわゆる流行り廃りのある単なるスタイルです。僕が言う感動はもっと普遍的なものです。人によってもちろん違うでしょうが、本質的なものは各自そんなに変わらないと思います。だから、時代に残る。だから、本物、本筋といえる。

――一時的な感動と普遍的な感動が同居して今という時代があるということでしょうか。

植野 そうですね。だから、そういう状況が30年後も今も変わらない、ということです。多様化と言ってもいいんだけどね、そういう言葉で片付けるのとは違う気がして。食べる人が選べばいいんです。そして僕たちメディアは食を真摯に伝えていけばいい。

食を伝えるうえで大切なのは「舌」や「知識」
「経験値」よりも、その人の「気づき」

――自分の軸を持って食を選ぶこと、自分の言葉で食を伝えることって、実はすごくむずかしいことだと最近よく思うのですが。

植野 そうですよね。テレビをみていると、「甘くておいし~い」という言葉を本当によく聞きます。彼らには「甘い=おいしい」が経験的に刷り込まれているんだよね。動画を見ながら「甘いとおいしいは違うから」って、オッサンはよく突っ込んでいます。僕はね、「絶対美味」ってあると思っています。でもだからといって、「絶対美味」がわかる人がすごいとも思わない。あと、最近は世の中みんなが新しい食材探しをやっていて。その人がつくる食材だから、珍しい食材だからおいしいなんて言っている。新しい食材を追求しているだけでは本当の美味しさを伝えることにならないのでは。食を伝えるうえで大切なのはその人の「舌」や「知識」「経験値」よりも、その人の「気づき」のほうです。

――植野さんの「気づき」は、店のホスピタリティに向かっていますよね。

植野 いわゆるグルメと自称している人たちが見ているというか味わっているポイントとは違うでしょうね。ふつうであることの偉大さを尊敬しているから。でもふつうにこそ、大事な気づきがある。たとえば「豚のしょうが焼き」では豚肉のブランドや焼き方、たれの味よりも、添えられているキャベツのせん切りにまず目がいきます。ここの店はしょうが焼きをキャベツで包めるように、ちょっと大きめにキャベツを切っているとかね。店主の心意気や、店全体に流れる雰囲気が心地よいかどうかが先です。でもそうした店は、結果的に、豚肉のブランドや焼き方にものすごく気を使っているんだけど、それを全面に出さないだけなんです。だって、彼らにとってはふつうだから。そうした店側のふつうの心意気に気づけるかどうか。そっちのほうが僕には大事です。ある居酒屋にポテトサラダがあって、その大将の顔を見ながらポテサラで一杯飲める話を編集部員にしたとき「え? ふつうでしたよ」なんて言われたことがあるんだけど、わかってないよなーと思う。自家製のドレッシングを使うことが特別なのではなく、市販のマヨネーズでいいから、そのポテトサラダが放つ何かに気づかないと。

――そうしたふつうの凄さについて「銀座升本」のことを発信していましたね。

植野 僕は升本のレモンサワーが大好きでね。注文が入ってから削る氷で作ってくれるんです。それがちょうどよい濃さで、冷え過ぎないし、薄くならない。注文の度に削るのは結構、大変なんですよ。でも、店の人はそれを声高に言わない。自慢しない。ふつうにやっている。それが銀座っぽいし、素敵だな、と思う。

――そういう店は、私たちが言わないと自分たちの価値に気づいていないですからね。

植野 ホスピタリティの築き上げこそ日本の食文化だと思います。ただ現状の日本は、食は進化しているけど食文化は退化しているように感じています。一部では華やかに盛り上がっているようには見えるんですけど、なんというか、実態というか日常が無視されているというか。たとえば日本の食文化を世界に発信するというと、ミシュランの星付きがどうのこうのとか、料亭文化の話が多くなってしまう。それはそれで大切な文化なのですが、ふつうの生活でつくられてきたものとは異なる。だって「ハレ」の文化ですからね。その国のなかで一番大切なものは「ケ」つまり日常の食文化で、和食文化を発信するなら、たとえば世界に「野菜炒め定食」を紹介して欲しいですよ。旬の野菜を選び、素材に合った油の量、炒め方をして。よく見ると細かいもやしのヒゲがとってあるから口当たりもやさしい。定食には炊きたての白いごはんと汁物、そしておかずが揃う日本の典型的なお膳です。ふつうの人が行ったことも食べたこともない食文化を大切にするいっぽうで、身近で理解しやすい食文化をないがしろにしていてはダメでしょう。

――やっぱり「野菜炒め定食」は地味だから表に出にくいですかね。わかりやすさでいえば、ミシュランブランドとかベストレストランという響きは派手ですもん。どうすればいいのかな?

植野 最近、役所や自治体の食まわりの会議に呼ばれることが多くなって、がんばって日常的な料理こそがその国の食文化を表していることを伝えるようにはしているけど、その意識を浸透させるには時間とお金はかかりそうでね。そこで思ったんだけど、やっぱり言葉の力は必要だなと。お金がかからないし、SNS時代に影響力あるし。甘いとかうまいだけで終わってる場合じゃない。

――あー、だからダジャレを?

植野 いや、そうじゃなくて(笑)。日本語ってすばらしくて、色の表現だけで何百通りもありますよね。味や香りの表現も多彩で。いや、別にふつうの人は「おいしい」だけでいいんだけど、食をメディアで伝えるならば、これまで甘いから、やわらかいからおいしいとだけしか言わなかったことを、別の言葉に置き換えてみる意識をするだけで、表現はだいぶん変わってくるんじゃないかな。何か素敵な日本語を使って表現するようなことが広まっていけば、大切な食のディテールをもっと意識するようになるんじゃないかと思います。

――それを日常の、ふつうの食で意識するということですね。

植野 素敵な日本語というとむずかしいかな。もっとシンプルに、たとえばカリスマ生産者とか、食べログ4点台といった言葉だけではなく、自分の「気づき」をそのまま言葉にすればいい。そうそう、「たとえ遊び」をしてもらいたいな。自分が食べたものを何かに例えてみる言葉遊びです。食文化が華開いた江戸時代は言葉遊びをしていたそうですからね。たとえばすしなら、特別なすし店でなく回転すし店でもいいんです。「口のなかでホロリと崩れる」というお約束の言葉ではなく、「ミルフイユみたいにはらりと散る」などと思った通りに表現すればいいじゃないですか。ハンバーガーを食べて「おろしたての麦わら帽子のような香りがした」って言ったっていい。意識をすると、言葉に気をつける。「クソうまい」なんていう悲しい言葉は使わなくなると思いますよ。いろいろな表現で盛り上がって、ふつうにおいしいことを発信するのは楽しいぞ、と思ってくれればいいんです。味の表現だけじゃなくてもいい。これもよく話すんですが、ちゃんぽんがとてもおいしい大好きな店に行ったんです。そこで50円玉のお釣りを落としてしまったら、それを拾って渡すのではなく、新しい50円玉をレジから出し直してくれてうれしかったな。また、真夏の暑い日にあるそば屋に行ったら、細かい氷が入った冷たい麦茶とともに、熱いお茶と、熱いおしぼりも出てきて。そういうちょっとしたホスピタリティに僕は感動するわけです。ホスピタリティというか、店にとってはごくふつうのおもてなしで、それを感じたうえでの味だと思うし、そうした気づきを発信することって楽しいじゃないですか。特別なものを追い求め過ぎると、外食の発信はどんどん行き詰まったものになっていきます。

明るく酒を飲んでストレスをためこまない。
そういう高知県民を憧れる時代がくる!?

――食文化と発信でいえば、高知県の土佐のおきゃくPR大使になられて、さらにおきゃくをテーマにした映画も作られるとか? すごいですね。

https://www.okyakumovie.com/

植野 高知のおきゃく(宴会)文化はすばらしいですよ。天国です。高知に初めて行ったのは30年以上前ですが、そのときに初めておきゃくにふれました。衝撃でしたね。体育館にずらーっといろいろな皿鉢が並んでいて、昼間からみんな酒を飲んでいるんですから。以来、いろんなおきゃくに伺いましたが、はっと気づくと、まったく知らない人たちと飲み食いしていて、あんた誰? 別に誰でもいっか、という雰囲気ですよ。おもてなしの心、人と人とが触れ合う場、ストレスをためこまないリズムが、ごくふつうに日常に残っているんです。高知県は平均所得で見ると低い。でも酒の購入額は全国一で、そしてみんなが楽しそうに暮らしている。ある人はこう言っていました、「人の幸せって何で測れる? 収入? 資産? いやいや、『おきゃくをやろう』と言ったときに集まってくれる人の数だと思うよ」。素敵ですよね。30年後の日本は高知が理想になっているような気がします。

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数年前のおきゃくで”箸拳”に参加した時の様子。

――楽しそう。どんな映画なんでしょうか?

植野 同じ高知県内でもおきゃくのスタイルは地方によって異なるんです。映画では県内各地に伝わるおきゃくを訪ね歩いて、酒を飲み、料理を食べて、それぞれの土地の文化、歴史、風土、そこに集まる人たちの思いを記録していくドキュメンタリーです。酒はダメ、大皿はダメ、何より人が集まってはダメといわれたコロナ禍は、おきゃく文化の危機だったと思います。おきゃくを体験したことのない若者もいますからね。でも高知の人々は、おきゃくのすばらしさが体にしみているので、酒の楽しさ、人が集う喜びをこれからも変わらず大事にしていくと思います。こうした素晴らしい食文化を世界の人々に伝えたい。だからタイトルは「OKYAKU」です。発信と継承がこの映画のコンセプトです。

―コロナで自分のよりどころに気づいた人たちは、きっと、おきゃくの心地よさにも気づくでしょうね。

植野 高知では何があろうとなかろうと、うれしいときも悲しいときも、みなで集まって杯をかわします。単にバカ騒ぎするためだけに酔うのではなく、高知のおいしい海の幸や山の幸、郷土に伝わる料理を味わいながら、皆がケラケラ笑って心をつなげる場所なんですよ。コロナは心のよりどころに気づかせてくれたところはよかったですが、酒文化が悪者にされてしまったところがあります。日本酒は日本の風土が育んだ飲み物なのに、そしてその酒を楽しむ方法を先祖たちがせっかく残してくれたのに、です。

――ホントに飲食店の規制には腹がたちました。また思い出して腹がたってきました。

植野 でもまぁ、コロナによって人びとは安心抗体ができたわけですから。おきゃくはそんな安心抗体ができた人たちにとってぴったりの場ですよ。脈々と受け継がれてきたその土地の食文化と人々の思いがしっかりと根付いていますからね。日常生活の延長でのふつうのおもてなしですから、居心地がいい。おきゃく文化は、別に高知に限ったものではないんです。日本各地にそれぞれのおきゃくはあるし、日本人のDNAにそれを楽しむ因子が組み込まれていると思っています。だから「OKYAKU」という映画は高知を題材にはしているけれど、日本人が大切にしてきた食文化を発信する映画だと思っています。これから30年の間に、いろいろなことが起こると思いますが、よりどころとなるのは人のつながりであり、そこに寄り添うのが料理であり、酒であると僕は思っています。30年の間にいろいろなことが起こって、30年後にいろいろなことに規制がかかったとしても、逆に規制がかかればかかるほど、日本中が高知県民に憧れて、おきゃく文化を楽しもうとしているんじゃないかな。だってそういう映画を僕たちは作るので。

インタビュー・構成:土田美登世



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