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第31回 第3逸話『プロテウス』 その1


 給料を受け取ったスティーブンは、その足でダブリン市街へ向かう。
ちょっと待てよ。
あんたまだ1授業しかやってないぞ。
多分この学校は、日本で言う中学か小学校。じゃあ授業時間は50分ぐらい?
一日労働時間50分? 
早々にスティーブンがその足で向かったのは「シップ」って言う飲み屋。マリガンたちと待ち合わせしてる。たった50分働いて、給料もらってすぐ飲み屋(てかまだ昼だぜ)。
…いい気なもんだ。


 

 余談だが、本書次頁にある概要には、時刻11時場所サンディマウント海岸、とある。
確か前逸話の始まりは午前10時。その時スティーブンは学校で授業中。それが終わると、サージャントの居残り授業につきあい、そしてディージー校長とのやりとり。トータルで多分3、40分はかかっていると思う。その後、スティーブンが学校を後にしたところで逸話終了。
この時点で11時過ぎてやしないか?

 で、スティーブンは今、このサンディマウント海岸にいる。この海岸はダブリンの中央を走るリフィー川の付け根にある海岸らしく、ドーキーにある学校からは結構な距離がある。第一逸話の舞台「マーテロ塔」からドーキーの町は南へ約1.5キロ。その時スティーブンは徒歩で向かったとある。そこからまたくるっと回って、現在はサンディマウント海岸。「路面電車を使った可能性がある」とあるが、駅で切符買って駅員さんに切符切ってもらって、電車待って、到着して、のんびり乗車。で、スティーブンが下車した可能性がある駅は、サンドタウン道路駅。そこはドーキーから20駅弱あるところだよ。そこからさらに海岸へよちよち歩いて海岸到着。

1時間は絶対早い! 

おい! ジョイス、これどう言うこったよぉ。おい! おいっ!

まいいか。

 で、本逸話のタイトルは『プロテウス』。そして気になるプロテウスの対応キャラは?
なんとスティーブン本人らしい。
前回ご紹介した、叙事詩『オデュッセイア』に登場する「海の翁プロテウス」は、時としてライオンや蛇や猪、何にでも化けられる変身神。
で今回その対応キャラはスティーブン・ディダラスその人。もちろん彼は変身できない。彼のその頭だ。思考の、意識の流れにて、さまざまな人物が現れては消えていく。アリストテレス〜キリスト〜ハムレットなど。これが変身じいちゃんプロテウスとの対応キャラ、その所以というワケ。

 そしてこの第3逸話『プロテウス』から、いよいよ本書『ユリシーズ』の真骨頂の始まり、文体は更に超難解になる。この逸話に限っては、ほとんど物語らしい物語はなく、ほとんどがスティーブンの意識の流れ、すなわち彼の頭ん中で浮かんだ(他人からは)意味不明な思考が、次から次へ語られて行く…。

 “可視態の不可避の様式。俺の目を通しての思考。万物の思考を、俺はここで読み取る(柳瀬訳)”

 …何言っとんねん?

 まず、見てくれ的には、彼はただ浜辺をトボトボ歩いているだけ。そしてぼんやり考え事をしている。
そりゃそうだ。彼は今も生きている。生きている以上、人間の思考は働き、何かが頭に思い浮かぶ。それは流れていき、また次が思い浮かぶ。そして次、次…。
これが「意識の流れ」です。
 
だからなんやねん、と問われると、困ります。そーゆー小説なのですこれは。

 上記の、スティーブンの思考を、まあざっくりいうと、

まぶたが開いている以上、目の前にあるものを僕は見る

 …かな。

 当たり前だろ。

押し寄せる波、海藻、なんかの卵(海亀?)。
今、スティーブンはそんなものを見ているわけ。

 そして…。
”彩色された署名(もの)の数々。あの人物はこう付け加えた。「物体における」、と。色がついていることより先に、物体だったことを意識したわけだ。どうやって?

 あの人物とは、アリストテレス(なぜ彼だとわかるかって言うと、その後スティーブンは彼のことを「もの知る人々の師」と称しているから。で、これはダンテ著『神曲』の中で、アリストテレスのことをダンテがこう称しているから、らしい…。面倒臭えぇ)。作者ジェイムズ・ジョイス及び彼の分身スティーブン・ディダラスは、パリ留学中、図書館でアリストテレスの本を読み漁った(お分かりだろうか? つまりパリの図書館にある本は、当然皆フランス語で書かれてある。ジョイスは移住わずか数ヶ月でフランス語をマスターできたらしい)。

 今彼は、この時読んだアリストテレスの本『霊魂論』『自然学小論集』を思い出している。
「霊」に「魂」…。何やら怪しい雰囲気が漂いますが、この本はしばし『心とは何か』と言うタイトルで翻訳されてたりしてるみたいです。ひょっとして面白いかもしれません。僕はまっぴらゴメンですが。
 


 視界において、ある物体とは、そのものが放つ「」で、その物体がそこにあるのを認識できる。そして、それには「」がある。だからその物体を、一つの「」として認識できる(注釈より)。
スティーブンの疑問は…、

「アリストテレスは「物体」を、それが放つ「色」(及び端)を視覚で認識する前に、その「物体」の存在を認識できたと言う。それはなぜ?」

 「実際見えていないのものを認識できわけないじゃないか」、と。
 
 その疑問に、スティーブンはすぐに答えを出す。

”そりゃ物体に頭をぶつけたのさ”

 つまり、目を閉じて歩いていたら「物」にぶつかった、それで(図らずも)認識できちゃった…ってこと?。
 では触覚だ。触ることで認識できた。アリストテレスさんは、視覚で認識する前に、それに触ることで認識できた。つまり、その物体を視覚で認識できるのは、それが放つ「」を見る、でしかないが、それ自体に触っちゃえばすぐに認識できるぜ、イエイ! …って言ってるみたい(多分)。
 
 …は、はぁ。

  スティーブンは、目に見えるものが本当にそこにあるのかどうか、知りたいみたい。
 
 スティーブンは、試しに、目を閉じて歩いてみる。
浜に打ち上げられた、貝殻や海藻を踏んでみる。
”グシャ、グシャ”

”おっ、おお、歩けてる。歩いてるじゃないか俺”
 スティーブンは、視覚を奪われても、世界を認識できていることに少し感動する。

”これが可聴態の不可避の様式だ”

 あれ? 言及が「聴覚」なっている…。

もう知らん!

 …疲れました。
まだ1ページ目で、この有様…。

 次回へ。






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