1982年の優勝決定試合を生観戦したころは中日ファンだった
1982年のプロ野球セ・リーグは中日がハマスタでの最終戦で見事
優勝を決めたわけだが、私はこの試合を生観戦していた。
これを思い出したら当時のこと+αをいろいろと振り返ってみたくなったので記事にまとめてみた。基本記憶のみを頼りに書くので多少のまちがいは
容赦していただきたい。
○中日ファンになった経緯
胴上げを見に行こうというのだから当然中日ファンだったわけだが、
横浜在住なのになぜ中日ファンになったかという経緯を書いておきたい。
私が本格的に野球を見始めたのは1981年でそのころは巨人ファンだった。
しかし学校のガキ大将的なやつが中日ファンで気の弱い私はそいつが怖いものだから方なく偽りの中日ファンを演じていた。
なんというか人間とはおもしろいものでこの偽りがいつしかいつそうでなくなってしまった。1982年あたりには真の中日ファンになっていた。
○1982年当時の中日
前年に近藤貞雄監督が就任しこの年は5位だったものの若手や中堅の伸び盛りの選手が多かった。こういった選手たちの成長が多数あったのが優勝できた最大の要因だと見ている。
ベストオーダーは1番から
田尾、平野、モッカ、谷沢、大島、宇野、中尾、上川、投手という感じ。
投手陣は都、小松、鈴木孝、牛島、郭あたりが主力。
打高投低のチームだったが素人にはこれがわかりやすくて楽しかった。
選手の自主性を重んじる近藤監督の方針もあってのびのびと個性を活かす集団で「野武士野球」の評もあった。
このあたりも本当にファンになったら魅力的に感じる要素ではあった。
MVPは捕手の中尾だったが、打率.350の田尾、30本塁打の宇野、16勝の都、抑えでブレイクた牛島あたりの活躍も印象的なシーズンだった。
○最終戦の思い出
巨人との優勝争いはもつれにもつれ結局最終戦まで決着せず。
勝てば中日優勝、負ければ巨人という大一番。
これが地元ハマスタでの大洋戦なのだから家でテレビなど見ていられようか。勇躍現地に乗り込むことを決断するのに時間はかからなかった。
その日は月曜だったがまずは応援の準備。
当時は応援グッズのメガホンもない時代だったから学校の体育倉庫から調達。一緒にハマスタに乗り込んだのはクラスメート、1個下の連中など総勢20人くらいだっただろうか。当然のごとく外野席を目指すのだがなんとチケット代の高い内野席より先にまさかのソールドアウト。そりゃあ外野席の応援で熱狂したいよな。みんな考えることは同じだ。しかたなく内野席に収まった。しかし試合前からいつもは静かな内野席が異常な盛り上がり。
外野席と一体の応援。幸い不安は杞憂に終わった。
試合が始まる。
いきなり1番田尾が敬遠される。相手の大洋には首位打者を争う長崎がいた。当然のごとく大ブーイングなのだが、勝てば優勝の試合で1番打者を
全部歩かせてくれるのだからこれは願ってもない展開。結局田尾は5打席連続敬遠。試合も一方的で気づけば中日8-0大洋の大量リードで最終回へ。
9回裏最後の打者はラム。三振でゲームセット。この年は故障に苦しんだエース小松の見事な完封勝利だった。帽子を飛ばしてバンザイする小松、一目散に駆け寄る捕手中尾、ベンチを飛び出す中日ナイン、外野フェイスを超えてグラウンドになだれこむファン。
そして歓喜の胴上げがはじまる。宙を舞う近藤監督。
こうして偽りからはじまった私の中日ファン生活はこの日
最高のクライマックスを迎えたのだった。
○優勝決定試合その後
しかしその中日ファン生活も長くは続かなかった。
1982年の優勝メンバーが好きだったのだが、時間の経過とともにメンバーが入れ替わりチームカラーも大幅に変わってしまうと、同じように応援し続けることができなくなった。
お気に入りのメニューのある行きつけのレストランが、看板はそのままに出されるメニューががらと変わってしまったようなものである。
かくして私は中日ファンをやめた。
その後はその時々でチームカラー的に好みのチームを応援するようになって現在に至る。
元来、全12球団の動向を幅広く見たいクチだったので、
特定の贔屓チームがないほうがよりその嗜好に合っているのかなとは思っている。
ただ当時応援していた中日ドラゴンズの優勝決定試合を生観戦できたことは、プロ野球ファンとしてちょっとだけ誇らしいし、1982年の中日にはあらためて感謝したい。
記念すべき試合を振り返りながら、当時の自分やそのチームがどんな状況だったのかに思いをはせるのもなかなか感慨深いものであった。
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