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「再掲」糸から始まる物語。

『糸』中島みゆき氏名曲のサビに「縦の糸はあなた、横の糸は私」とある。

https://www.youtube.com/watch?v=cmPc7s3n3DA

あなたの物語という縦糸と私の横糸とで一つの布を紡ぐ、これは書くということであるという。greenzのライター石村氏が記事『読むことと書くことは変わらない。だからただただ”小さな物語”について考え続ける。』で書いているように、一つの小さな物語を作っているのだ。そうして世界はこのたくさんの小さな物語で満たされていて欲しい。それは決してわかりやすい大きな物語ではないという。それはもしかしたら『anone』という坂元裕二氏脚本のドラマにも表れているのかもしれない。ドラマが提示する場面をこちらのブログ『坂元裕二『anone』1話』のヒコさんはいとも見事な生地に仕立て上げている。

読むことは書くこと


ああ、読むこととは書くことであり、書くことは読むことである。また読むとは視るということにも通じている。これは最近のテーマでもあって、以前からよく読んでいるデザイン関連の記事の作者さんが、『愚直に読み、愚直に書く』でもあげているので、引用する。

「読むと同時に自分でも書くからこそ読むことで得たものが生きてくる。書かないなら、読んだことをその半分くらいしか価値として享受できないのではないかとさえ思う。」

そうなのだ、昔誰かが本はアウトプットする前提で読んだらしっかりと理解できるから、読んだ本をSNSで紹介しようといって記事にしていたのを横目に、真似したこともあったが、今読むときっとただの紹介文もしくは小学生の読書感想文ぐらいにしかなっていないのかも知れない。言葉を感覚的に配置していただけで思考というには程遠いものだったと推察される。糸にするには束ねられてない。

というのも、

「つまり、読みながら、自分の考えとして編集しながら(少なくとも編集の方向を探りながら)読んでいるということだ。」

という読み方をしていないからでもある。編集という編み物をしているわけで、これは前述の石村氏の

「理解しようとする人は、文章を読みながら横糸となる要素を自分の中から引っ張り出してきたり、時には文章を離れて調べたりして自分なりに編みながら読んでいくのです。そうすると読む人それぞれの物語がそこで織られます。」

ということでもある。


思い浮ぶもの

というとこまで書いて、ふと最近本を読んでいないということに思い当たった。いつだろう、最近の読書は? 今年に入って買ったのは育児書とヨガのポーズ集だ。読書としては、昔読んだ本を拾い読みしている程度である。なんていう回想をしていると、一冊の本が浮かび上がった。


『世界は分けてもわからない』福岡伸一氏の新書だ。だが、これはただの新書ではない。これはまるで小説だ。展開に引き込まれ、研究室、皮膚の下、細胞膜の中へと未知なる冒険に誘ってくれるのである。面白かった新書はいくつかあれど、ドキドキする新書はおそらく他に類をみないだろう。思考と感情の言葉が同時に揺さぶられたのだ。


他に心を動かされた新書が2冊だけある。一つは竹内敏晴氏のど真ん中に放り込まれる直球が気持ちいい『日本語のレッスン』。もともと難聴で言葉を喋れなかった竹内氏が四十半ばで喋れるようになったという経緯があるためか、氏がよく引用するメルロ=ポンティ氏の「第一の言葉」で文章が成り立っているからであろう。肌にずしんと手応えを感じるのだ。感覚の言葉で生きていた当時に、しっかりと手応えを感じたに違いない。

もう一つは真逆の軽やかな言葉とでもいえそうな玄侑宗久氏の『禅的生活』である。こちらは禅語をテーマに、うすらとぼけた感じで、禅を中心とした仏教から脳科学の話を軽妙に綴っている素敵なエッセイでなんだか脱力できる一冊だ。思考の言葉をその入り口付近で行きつ戻りつしていたときにうまく絡めたのだと思う。

さて、この物語は読者にどんな横糸を要求しているのだろう。なぜか巡り合ったあなたへ。

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