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infj | どんな場面であっても緊張してしまう自分について



 13時03分、充電78%、伸びかけた爪、湿気でベタつく肌、喉の渇き、微かな瞼の重み。
自分の部屋にいるのに、自習室に居るような緊張感がある。席を立つとき、周りの人の集中力を切らさないよう慎重な所作になる、ああいう緊張感。


 私は、常に緊張している感覚がある。それは例えば肩に力が入っていたり、無意識に眉間がぐっと寄っていたり、人と食事する時も相手に意識が集中して食事がままならないとか。そういう感覚が内在していて、なんだかもう普通になってしまっている。



 人と話すときも、話す私と空中から見下ろす私の二人がいる。



 Aの私は、相手と対になって自分の数少ない語彙や知識を使って話したり、素直に感情を表に出している。一方でBの私は、「また目を合わせて話せてないよ」「話が滞っているよ、相手を待たせてるよ」「声が小さいよ」と、弱さを罵るように囁いてくる。正確に的を射る。

 変な話だけど、そういう自分がいるせいで、時々他人に対してもそういう悪態が芽生えてしまう。口には一切出さないけど。そんな自分を陰から感じて嫌になってしまう。その嫌になる根源には「善」側でいたいという欲求があるからなのかもしれない。最近気づいたことなんだけど。



 善でありたいと思うからこそ、自分の中にあるいわゆる「悪」だと認識している感情や考え方を無意識に封じ込んでいる。でも、それって本当にいいのかな。これって利己的なんじゃないか。例えば、大事な人が危ぶまれたとき、脅かされているときにも私は黙っているだけになるのか。そんなとき、私は黙りたくない。きちんと声を出したい。そう思う。

 私の「悪」は、誰かの「善」であり、それは逆も然りでそうだ。私の「悪」で誰かが傷つくと思い込んでいた。けど、多分ある場面であればその悪は他人にとっての示唆になり得るんじゃないか、とも思った。傲慢かもしれないけど、その人を律するための小さな一翼になり得るんじゃないかと。

(ここで言う悪の定義は日常の些細なことから倫理的なことまで広い意味を持っています)。



 これまでの私であれば人と話しているとき、それが親しい人であればその相手の言い分がどうしても相容れないものだったときはまず場の調和を崩したくないから、一旦共感をして意見の対立(が必ず起きるだろうと過信してた)を回避していた。けど、考え方には様々なグラデーションがあるのは勿論、考えを聞き入れてくれる器の広さが相手にあることが分かれば、自分の本音は堂々と話してもいいのだと最近ようやく気付けた。

 私は「対立」というものを過剰に恐ろしいものと認識していたんだろう。反対意見を言うことで喧嘩を買われると思っていた。その稚拙さが自分を萎縮させていたんだな。

 



 きっと、これからも人と対になるときに緊張するのは変わらないと思う。それが私なんだろうし、無理をして変わるエネルギーも今は持ち合わせていない。一般的には人と関わることに緊張しない、抵抗感がない方が出会える人の母数も多くて多様な考え方に触れられる機会も多いとは思う。でもまあ考え方に触れられる機会というのはリアルでなくとも選択肢はあるから気にしないでもいいのかな、そこは極端にならず曖昧なものでいいか。


 私はまだ人と関わることがすごく怖くて他にも色々前向きになりたいことがいくつかある。しかしそれを全部回収して一気に改めようとするのは本当に酷だからできない。だから今回のように、ひとつずつ内省してまた新しくバージョンアップしていくことができたらいいなと思う。





 転換点となるきっかけを見逃さないようにしたい。
 自分を譲歩するような心持ちで挑んでみるのもいいのかもしれない。


 

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