自分の中でシーラカンス・ブームが来ていることと深海でシーラカンスが生きているということについて
この1年くらい、自分の中でシーラカンス・ブームが来ている。発端は沼津港深海水族館が『けものフレンズ3』とコラボしたことだ。
シーラカンス、生きている化石、深海…
コモロ諸島の漁師からは食用に向かず使えない魚、ゴンベッサと呼ばれた。食感が濡れた歯ブラシ。'80年代の学術調査でブームが起こる。昭和天皇は学術的解剖に立ち会った際に食べられるのかと聞いて周りから止められた。故・鳥山明は週刊少年ジャンプの企画で実際に食わされ、『ドラゴンボール』で(シーラカンスっぽい魚を)孫悟空に(美味そうに)食わせた。『ボボボーボ・ボーボボ』でもギャグで食われていた。『千と千尋の神隠し』ではシーラカンスの胃袋なるものが食われている。『ポケットモンスター ルビー・サファイア』から登場したみず・いわタイプのちょうじゅポケモン、ジーランスのモデル。やったことはないが3画面筐体のシューテングゲーム『ダライアス』でステージ1のボス。『どうぶつの森』では初期には大量に釣ることができて金策になって、後のシリーズではレア枠になった。『ラブライブ!サンシャイン!!』のエイプリルフール企画でネタにされた。
並程度の生き物好き、サブカル好きの自分におけるそれまでの認識ではそんな感じだし、生き物としての好きの程度も並程度であった。それがどうも急に自分の心に食らい付いて離さずにいる。
ゲームにおいて雑に強い性能をしているし可愛いのもある。
一時期、図書館から手当り次第にCDを借りて無駄にPCのiTunesに取り込むのが日課で、ストックするだけして今までちゃんと聴いていなかった内の1枚だったのだが、Mr.Childrenのシーラカンスが随所に扱われるコンセプト・アルバム『深海』を聴き直した。
周りから「世代じゃねえじゃねえか」とツッコまれながら「名盤だなあ、いい曲だなあ」とウォークマンに入れてヘビロテして聴きまくっていたりする。個人的に好きなのは『マシンガンをぶっ放せ』。
時代遅れ、必要ないものの比喩や代名詞としてネガティブな意味合いで使われることが多いシーラカンス。(まあそもそも動物全般に形容するというのはあまりいい意味合いに扱われないのは確か、権力の犬とか泥棒猫とか)
『僕のヒーローアカデミア』の好きなシーンで、アニメではカットされて惜しいと思う一方で、言葉としてのシーラカンスの扱いに若干違和を感じてはいた。(まあ悪役の台詞なので、別にいいか)
ミスチルの『深海』の冒頭『シーラカンス』でもあまりよい歌われ方をされていない。
桜井和寿が自殺願望を抱いて、(不倫をして)ピュアなラヴソングはもう書けないと思っていたダウナーな時期のアルバム。シーラカンスも、"かつてあったと思われていた、今はあるんだかないんだかわからない、あったとしても何の役にも立たないかもしれないもの""愛とか夢とか希望"のメタファーとして扱われている。
話を戻して沼津港深海水族館。地元の水産会社・佐政水産が観光・町おこし事業の一環として2011年に創設した水族館。規模としてもコンセプトとしても水族館定番の人気者のイルカやペンギンの飼育は難しいし、そうでなくても同じ沼津市の伊豆・三津シーパラダイスやあわしまマリンパークにはないもので勝負しなければならない。常設展示として長期飼育が難しいものが多い深海生物で入れ替わりが激しい。シンボル、屋台骨になる存在が必要だっただろう。
そこに生体ではないし日本で漁獲されないシーラカンスを持ってきて施設2Fをシーラカンス・ミュージアムとしたのは大胆な判断に思える。初代館長は5体の剥製・標本を仕入れるために億単位の費用をかけたことで大層批判されたそうだし、それも仕方ないことではある。しかし実際のところどうだろうか。
結果的にだいぶ英断だったんじゃないか? 10年そこらで沼津のシンボルと化して沢山のモチーフにしたグッズやスイーツが作られている。静岡新聞的には日本平動物園のレッサーパンダ、掛川花鳥園のワシミミズク、浜名湖のウナギに肩を並べている。
特産でも何でもないし駿河湾にいないのにプロモーション、ブランディングに成功している。まるで同じ静岡でオージービーフ100%のげんこつハンバーグを全国に名物として轟かせた炭焼きレストランさわやかやアニメ不毛の地と呼ばれたのに太田書店、エーツーときてホビー・オタクカルチャーの中古買取販売で日本の覇権を握った駿河屋みたいだ。
かつては不味くて役に立たないからと捨てられていた変な魚が学術目的で高く買われてコモロ諸島を潤し、今現在も色んな経済効果を生んでいる。地球環境史で言えば3億5,000万年がかり。
何が役に立つのか、意味をもたらすのかわからない。どんなことも。
最近文庫化もされた養老孟司と伊集院光の対談『世間とズレちゃうのはしょうがない』の最後に言及されていたことを思い出して、読み返して納得がいった。
シーラカンスという存在がここ数年自分が考えている生きる意味とか価値とか多様性とか、そういうことに噛み合ったような気がする。
対談を忘れかけていたけど無意識の内に自分の書くことにも影響を与えていたみたいだし、生物学や自然科学を追究すれば生物や思想の多様性は役に立つとか立たないとかでは括れないことに辿り着くのかもしれない。
人類や地球が滅びるまで、シーラカンスは深海で生きていてほしい。いや、可能な限りの多くの生物と多くの人の生き方は共存してほしいのです。
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