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笑いを追求するのが不毛に思えてきた
お笑いは好きである。少なくとも人並み以上には。だから大学で落研に入ろうとしてないから演劇サークルに入ったし、伊集院光『深夜の馬鹿力』にネタを投稿した。伊集院光のラジオトークも、アンタッチャブルのしゃべくり漫才も、ラーメンズの不条理コントも、ハリウッドザコシショウの誇張しすぎたモノマネも好きだし、落語も大道芸も好きだ。
しかし、どうも自分の面白いことを考える力も面白いと思える感受性も弱まってきている気がするし、どこか常人としての限界を感じている。
ラジオのネタ投稿もほとんどしていないし、思い付いた時、週に5~10本程度の小ネタを送ってもまあ採用されないし、自分の中で最後に採用されたネタで止めを刺された気がする。
カルタ形式の大喜利「新・勝ち抜きカルタ合戦改」のコーナーの「やばウマイ店カルタ」で「て [電磁波の影響で素材の味が破壊されるのでスマホ撮影禁止]と貼り紙がされている」と読まれた後で伊集院光が「[当店はNASA開発の宇宙水を使用しています]と貼り紙された上に実際ウマい店があった」と被せてきたので「事実は小説より奇なり」ではないが「どれだけ狂った虚構の珍言妄言を捻り出そうとしても現実に勝てねえ」と思ってしまった。
そうでなくても「ウルトラ泡沫候補都知事選公約かるた」「もっと変えよう! Twitterカルタ」「暴暴陰暴論カルタ」のネタを考えようとしても、実際の都知事選挙は選挙ハックと称した悪ふざけで有権者を混乱させることしかしない輩ばかりだし、Twitter(現:X)の代表は低俗なネットミームを面白がってはインプレゾンビの乞食行為を野放しにするし、わけのわからない陰謀論を垂れ流して金を稼いだり踊らされる人間だらけ。それを冷笑したり茶化すネタすらバカらしく思えてくる。
それにそもそも世間一般が面白がることを面白いと思えなくなっている。
2年前に猛暑と物価高の影響で箱根園水族館のペンギンの餌のアジが高くてサバに変えた話題。
老若男女国内外が拒否するペンギンを「カワイイw」「食えよw」と笑う。でも私は笑えない。動物園が好きなのもあるから動物の飼育が大変だと思うのもある。
それにそのニュースを見る前日くらいにNHKでやっていた気候変動のドキュメンタリーを思い出した。中東でヤギの餌になる牧草が生えなくなっている。仕方がないから廃ダンボールの端材をヤギに食べさせる。飼い主は「最初は嫌がっていたけど、最近は食べてくれるようになったよ」と語っていた。それと同じことと考えるとどうも笑えない。
でもって今年も暑さは酷いし、水産資源の問題は解決しないし、物価も上がっている。自分も今まで食べれたものが食欲がなくなって食べる気がしない。米を食べるのもしんどいので業務用バニラアイスを一掬いにダークラムかけて最低限カロリー摂取している。(それはそれで贅沢だ)
少し前はやすい笑いの対象であったオカマ・ゲイ・ホモ・女装。それがLGBTがどうとか言われ出して適宜自重すること自体はいいのだが、自称女性がスポーツ競技で表彰台に上がったり、公衆浴場や公衆トイレに入ってトラブルを起こす。「お前『こち亀』かなんかのギャグマンガのエピソードか?」とツッコみたくなるようなことが起こる。
私は人生で「平和な世の中に寄生してくだらない、ふざけたことを考えていたい」と思っている。でもどうも世の中自体がくだらない、ふざけているように感じて平和ではなくなっている気がする。そうなってくると自分がくだらない、ふざけていることを考えていられない。
昔、大学の演劇サークルの一年後輩が作った舞台をなんとなく思い出す。(私にも言えるが)年相応にイキった奴だったし、浅い認識で寺山修司なんかに手を出すからあんまりよく思っていなかった。
後年、そいつが作った企画公演。話の途中で男が女に告白をしてフラれる。その女は別の男に告白してフラれるという数珠繋ぎが起こる。その中で男が男にフラれるくだりが入る。箸が転んでも可笑しい連中は笑う。私は「あ~、そういう笑いに逃げるのね」と値踏みする。終盤、その男にフラれた男はシリアスなトーンで「僕は、男を好きなことを笑われるのが許せない」と独白をする。
「やられた、やりやがった」と思った。
自分や他人や世間が笑うこと、面白がることの根源は何なのか、考えてはわからなくなる。いまだに。