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「スポンサード記事=悪」なのか?

私たちは日々、多くの広告に触れています。

最近はわざと誤クリックを誘発するバナーや一見すると広告とはわからないような広告も増え、普通に生活しているだけでも押し寄せてくる広告の海には辟易させられるものです。

特にデジタルネイティブとも言えるミレニアル世代は、もはやSEO対策ばっちりのGoogle検索からは離脱し、巧みにスポンサード記事を見分け、それでもどうにかクリックさせようとする広告主側とのいたちごっこをしているようにすら見えます。

LINEの田端さんが「オーケー、認めよう。広告はもはや「嫌われもの」なのだ」という記事でも書かれていた通り、もはや売ろうとする広告は忌み嫌われるものとなっています。

これからの広告は、欲望を喚起させるのでなく、欲望を充足させるものになるべきだ。そして欲望は、広告が一方的に作り出すのでなく、消費者が主体的に感じるべきものだ。(オーケー、認めよう。広告はもはや「嫌われもの」なのだ

そしてふと思い出したのが、少し前に話題になっていた人気テスト誌「LDK」の編集長へのインタビュー記事です。

参考:広告まみれの女性誌にうんざりの貴女へ『VERY』部数に迫る注目のテスト誌『LDK』

広告が嫌われるようになったことで女性誌の純広告出稿が減り、まるで雑誌内のコンテンツのような記事広告が増加していることは周知の事実です。

純粋なコンテンツは半分ほどになってしまっている雑誌もあるようで、もはや私たちはお金をだして広告を買っているといっても過言ではありません。

このように記事広告が加熱している女性誌市場において、LDKのような、広告出稿を受けずに完全に中立の立場として、読者に利益のある情報を届ける雑誌が評価されるのは必然とも言えます。

情報を届ける出版社と受け取る読者が直接つながっているシンプルな構造のため、読者の方だけ向いて雑誌を作れるというのは、他の女性誌に比べて圧倒的な強みです。

では、雑誌を含むメディア全体がその方向に動いてくべきかというと、私はそうではないと思っています。

なぜならば、ブランドやメーカーにスポンサードしてもらうからこそ、クオリティの高いコンテンツを作ることにもつながるからです。

LDKが広告をいれないというスタンスで評価されているのは、あくまで彼らが作っているのが「テスト誌」だからです。

そこで求められているのは、情報の中立性と正確性であり、日常の延長にあるリアルな情報です。

しかし、世の中には一定の「非日常」も必要不可欠なもの。

お得な情報だけでなく、CanCam OLやVERY妻に憧れる気持ちも必要なはずです。

その憧れを作るためには、商品の提供や広告出稿といったスポンサードが欠かせません。

もしCanCamやVERYが広告を一切いれなくなったら、モデル・カメラマン・ライターすべてのランクを落とさなければなりませんし、海外ロケなんてもってのほか。

どのカットも出版社のロビーで撮影するようになるかもしれません。

「スポンサード記事」というと、広告とわからないように買わせようとする悪いイメージをもつ人が多いように感じますが、本来はコンテンツのクオリティを上げるために必要な仕組みだと個人的に思っています。

もちろんお金を出してもらう以上は、ある程度広告主の売上に貢献する意識が必要ですが、実際にクリエイティブを作っている人たちは、コンテンツそのもののクオリティを上げるために苦心しているはずです。

私たちは「広告」と聞くと反射的に避けてしまいがちですが、「スポンサード=悪」、「ノーマルなコンテンツ=善」という単純な図式ではなく、そこに魂が入っているか、情報の受け手のことを考えているかこそがもっとも重要なことだと思います。

受け手の情報リテラシーが年々上がっている今、小手先のテクニックでごまかさず、受け手ファーストで考えることが回り回って広告主の利益につながるのだと説明する手間を惜しまないこと。

私自身、発信側としていつも胸に留めておこうと思っていることでもあります。

世の中にもっと愛あるコンテンツが増えるように、微力ながらこれからも精進していきたいと思う次第です。

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(Photo by tomoko morishige)

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