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人の死は、「わりきれなさ」でできている #PLAN75

75歳以上の国民は、自らの生死を選択できる制度が可決した──。

まさにディストピアそのものでありながら、起こり得そうな設定で注目を集める映画「PLAN75」。

最近もTwitterで「#国は安楽死を認めてください」というハッシュタグがトレンド入りしていたり、オランダにおける安楽死の現状について医師の視点から解説したツイートが話題になったりと、安楽死について考える機会が増えた。

社会全体が疲弊し、格差が広がり、多くの人が絶望感に苛まれている。未来に希望を見出せないまま生きるよりも、苦しまずに人生を終わらせられるならばそれを選択したい。そう考える人は、高齢者ならずとも若者にも増えている。

「PLAN75」の世界では、75歳以上の高齢者は自ら命を終える選択をする「権利がある」とされている。

利用を決めたあとはコールセンターのスタッフが丁寧にこれまでの人生について聞いてくれて、支度金として10万円も支給される。自分の人生を棚卸し、最後に豪華なごはんを食べたり旅行をしたり、思い出をつくって「綺麗に」人生を終わらせることができる制度になっている。

メディアでは「PLAN75」の経済効果が語られ、政府は対象年齢を65歳へ引き下げることも検討している、と作中で暗に語られる。作中の世界では、どうやらPLAN75は「成功」と解釈されているようだ。

にもかかわらず、物語は暗く、じんわり絶望へと向かっていくように感じられる。制度が世の中でもてはやされればもてはやされるほど、当事者である高齢者の絶望は深くなっていく。この対比が、なんともいえない後味の悪さをつくりだしている。

設定がセンセーショナルである分、「こんな制度をつくっていいのか」「安楽死は認められるべきなのか」といった是非をはっきりぶつけてくる作品だろうと身構えていたのだけど、映画では拍子抜けするほど淡々と日常の風景が流れていく。

わかりやすい物語の起伏を求める人には、もしかすると物足りない構成かもしれない。けれど私は、このじわりじわりと絶望へ誘導されていくつくりが、制度の残酷さをより強調しているように感じた。

映画では、制度の詳細や登場人物たちのおかれた状況について直接的な説明はほとんどない。言葉ではなくそれぞれの暮らしぶりや表情、メタファーとなるモノの動きによって観客側が考えさせる余白を作っている。

だから、映像はとても静かで淡々としているのに、観客側の頭のなかは騒がしく、忙しない。まるで謎解きのように、ひとつひとつのシーンで表現されている状況を、言語以外の情報から読み取っていく必要がある。

説明が最小限であることでわかりづらいと感じる人もいるかもしれないが、私はこの説明のなさこそが、私たちが普段弱い立場の人たちの声なき声に気づけていないことを表現しているような気がしてならない。

自ら死を選択する高齢者たちは、その辛さや置かれた状況の困難さを言葉にしない。ただ疲れた顔で、困った状況に直面しつづけている。そして第三者に助けを求めることもなく、迷惑をかけたくないからとひっそり身を引き、いつのまにか死を「選ばされている」。

たしかに本作は説明が少ない分、観客側の想像力に任せる部分も大きく、わかりづらい面がある。しかしそのわかりづらさに対して想像力を働かせて「わかろうとすること」こそが、現実世界でも私たちに求められていることなのではないだろうか。

映画を観た人の中には、「PLAN75」のような制度ができたら自分も使うかもしれないと書いている人も一定数いる。

しかしこの作品が問うているのは安楽死の是非ではなく、権利のように見せかけて実際は死を「選ばされている」側の人たちを生み出していることの問題なのではないかと私は思う。

冒頭に出てくる主人公の同僚たちは、家族にも恵まれてある程度お金にも余裕があることが随所でそれとなく表現されている。おそらく彼女たちが「PLAN75」を使うことはない。

民間事業者が提供する豪華版の「PLAN75」のパンフレットを眺めながら、まるで旅行の計画を立てるかのように「最後にこんな贅沢をして、家族に看取られながら逝くっていうのもいいわよねえ」と話したりしているが、健康なうちは実行に移すことはないだろう。

結局、「PLAN75」を利用するのは頼れる家族もなく、働き口も住む場所も蓄えもすべて失ってしまった、行き場のない人たちなのである。そうした人々に必要なのは本来は福祉であって「死による救済」ではないはずだ。しかし作中では、この大前提は完全に無視され、弱い立場の人々は死へと追い立てられていく。

作品を見る前から、このテーマでどう着地させるのかに強い興味があった。そこにあるのは絶望か希望か、はたまた私たちへの問題提起なのか──。

最後まで鑑賞した私が強く感じたのは、希望でもなく絶望でもなく、人生における「わりきれなさ」だった。

相手が匿名の存在であればわりきれる死や不幸も、相手の顔が見えて特定の個人になった瞬間に、「わりきれないもの」になる。しかし、だからといって自分がその人を救えるわけではないし、制度を変える力もない。

自分に対する無力感と、それでもわりきれない悲しみ。そして、状況的にもはや死を選ぶしかない立場に追い込まれても、いざとなると生きようとしてしまう人間の本能的な生への執着。

そういうわりきれなさが、物語の根幹をなしていたように思う。

何も解決はしないし、それぞれの心に重いしこりが残るだけの物語。けれどこのわりきれない悲しみは、このままいけば近い将来に我々が背負うことになる、とてつもなく重たい荷物なのではないか。

効率や生産性でわりきれない「命の重み」を、2時間かけて丁寧に描いた素晴らしい映画だった。


ここから先は、「PLAN75」を観て私なりに考えた、この制度の是非について。センシティブなテーマなのでマガジン購読者限定コンテンツにしています。

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思索綴

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